一匹の。
猫さんです! と隣を歩く髪の長い少女が塀の上で気だるそうな姿勢で大きく欠伸する猫を見て声を上げた。その声がとても明るく華やいでいる事からしてもおのずと判るように、彼女は大変猫好きである。それもただの猫好きでは無い。十二支に出て来る猫が好きと言う一風変わった筋金入りの猫好きで、そんな猫年ファンの小さな歩幅に合わせて隣を歩く、猫に大変懐かれ易い――懐かれ易かったオレンジ頭の少年は呆れたようにそんな少女を見下ろした。
「夾君、あの猫さんは美人ですね…!」
「……そうか?」
大口開けて欠伸した顔は、夾と呼ばれた少年の眼にはハッキリ言って同意しかねる不細工さであった。キリリとすまし顔で居てくれればまだ同意の余地もあっただろうが、否しかし。大体猫に向かって「美人」と言う表現は何かおかしくないか? そこは「美猫」と表現するのが正しい日本語のような気がする。
「普通だろ?」
「そうでしょうか…」
猫同士だから理解出来るかと言えば決してそんな訳も無く、夾には猫の言葉など判らないし猫の顔立ちや美醜も判らない。そもそも、夾は人間の顔立ちの美醜にもあまり興味が無いので、猫にしたって同じではあるが。
基本、何事にも興味が薄く淡白なのだから仕方無い。そういう風に育つしか無かったと言うのもある。その代わり興味の強いモノには、ヒト一倍熱心であるが。勝負事にはいたく燃える性質でもある。
だから、同意を得られなかった事にしゅんと気落ちしてしまった隣の少女を見て内心大いに焦る程度には、夾という少年にとってその少女の存在は大きいという事で。
「……あぁ、もう。しょーがねーな」
猫にあれだけ懐かれていたけれど、呪いが解けた今はそうでも無くなって。以前なら嫌でも大量に寄って来たけれど、今の夾には手を差し伸べたとしても擦り寄って来る確率は低い。――普通の人間だから。
猫は夾の差し出された手を訝しそうに見詰めてからペロリとその指の腹を舐めた。ザリザリした舌の感触にはとうに慣れている。そのまま懐いて腕に沿うように降りてきてくれれば、隣で「うわぁ」と眼を輝かせ成り行きを見守っている少女の気分も浮上するだろうか。
そんな夾の打算を見破ったのかただ単に気紛れかそれとも指に何の味もしなくて興が殺がれたのか、白灰色の毛並みの猫は詰まらなさそうに碧い瞳を眇めると塀の上から飛び降りた。――向こう側に。
「あぁ…、行ってしまわれました」
残念そうな声に、こっちも残念な気持ちになる。
「でも、猫さんは凄いですね。あんな高いトコロに平気で跳び乗ったり、降りたり出来て羨ましいです!」
「……そうだな、」
それは本音だ。その身軽な性分を、夾は心のどこかでずっと羨ましく思っていた。自分も二階から飛び降りたとて足を痛めない程度には、身体能力は高いと思っているが。そうじゃ無い。そういう意味での身軽さでは無く――自分は一生、『草摩』と言う囲いの中から外に出られる日が来るとは、思っていなかったから。絶望的なまでに圧倒的な、その塀の上に乗る事も、またそこから飛び降り外へ出る事も叶わないのだと、諦めていたから。
あの、上に。
あの頃の自分が例えばその幽閉という絶望の檻から脱出しようと試みて、その上に登ったとしても。そこから外へと続く果てしない程底知れない地面に、自分は果たして落下出来ただろうか。
「…夾君?」
「何でも無い」
今更考えても無駄な事。呪いは解けて幽閉の未来も消え失せた。愛しいヒトと肩を並べて歩ける事実。――何もかも、全て嘘のように幸せで。眩暈がする。
けれど今、こうして歩いている自分こそが嘘なのでは。夢を見ているのでは無いだろうか。自分はあの塀の上に居た猫のように、結局その手を振り払って内側に降りているんじゃないだろうか。――有り得る。俺なら充分に有り得る。伸ばされた優しいその手を、恐怖から何度も振り払った。泣かせた。……好きな、本当に心から、慈しみたい大切なヒトなのに。
隣を歩いているのは誰だ? 本当に、俺の愛しい女か? 名前を呼んだら違う人間だったりしないか?
喉が、急激に渇く。足元が覚束無い。馬鹿馬鹿しいと自覚している。――それでも。
長年に渡って根付いた諦観と恐怖は、時として幸福を疑うくらいは容易くて。
「……」
声が、出ない。
先程まで、あんない幸せだったのに。満ち足りた気分だったのに。可愛いお前が他愛無く他愛無い話をするのを、確かに隣で相槌を打ちながら聞いていたのに。
何を話しただろうか。学校の事だった気がする。席替えの話はしていた。その後に国語の授業の事。岡目八目の意味が未だに判らないなんてお前大丈夫かよ国語の成績が心配だと思いながらそれをからかったのは覚えている。その後に今日の夕飯の相談。お魚は鮭か鯖どちらが宜しいですかと訊かれて……俺はどっちと答えたのだろうか。――どっち、だった?
どっちでも良かった。魚は大抵好きだし。焼き魚でも煮魚でも刺身でも。隣を歩く彼女が自分の好物を作ってくれるのだと思うだけで嬉しかったから、どっちでも良いと答えた…ハズ。だった。多分。否、確か。……本当に? 本当に「確か」か?
心がざわめく。胸が冷える。眼の前が暗くなる。頭の奥で警笛。――醒めろ醒めるな醒めろ醒めるな醒めろ醒めるな醒めろ醒めるな醒めろ醒めるな醒め
「―――――――ッ、」
呼吸が苦しい。何故。どうしてだ。俺はもう自由になったハズなのに。愛しいヒトを泣かせずに、その優しい手を二度と振り払わなくても良いのだと、安堵したのに。
「夾君!?」
「駄目だ触るな!」
鋭く叫んでからハッとする。身が固くなる。――拒絶の言葉を口にしてしまった。したくないのに。誰よりも側に居て微笑んでいて欲しいヒトなのに。――嗚呼、どうか。どうか泣かないでくれ傷付かないでくれ拒絶されたと思わないでくれ。俺が今、一番怖いのは。
今、彼女の名前を呼ぶのが怖い。
本当に、俺の隣を歩いていたのは。隣に居るのは
透なのか? 違うヤツだったりしないか? 俺は、誰と――。
「……あ、」
起きろ起きるな起きろ起きるな起きろ起きるな起きろ起きるな起きろ起きるな起きろ起きるな起きろ起きるな起き
「――
とおる…ッ、」
怖くて、だから振り切るように叫んだ。恐怖を払拭したくて。「大丈夫ですよ」と言う、その声を期待して。――眼の前が黒く白く掠れて滲んで、暗転するかのように意識が沈んで消えていく――。
「―――――――ッ!」
眼が覚めると視線の先に見覚えのある天井があった。
――あぁ、やっぱり夢だったんだ。俺が塀の上を乗り越えて外へ出られるなんて、そんな嘘みたいに幸福な人生、夢に違いないじゃないかと、絶望に胸が軋む。妙な違和感は残るけれど、それは意識がハッキリしていないからだと寝ぼけた頭で決め付ける。
だから…そのまま嫌な夢を思い起こさないようにと早々に眼を瞑ろうとして寝返りを打ったら、そこには心配そうな顔で控えめがちに腕に手を添えるヒト、が。
「……透?」
今度は躊躇いも無くその名前が口から出た。――そして当然のように、彼女は応える。
「いきなり、名前を呼ばれましたから…起きたのですが、その…何か、嫌な夢でも見たのでしょうか?」
「……あ?」
そこで夾の頭は今度こそ覚醒した。――見覚えのある天井だが、それは紫呉の家に宛がわれた自室の天井では無い。周りは自室では無い。否、ある意味自室だが、高校生の頃過ごした紫呉の家に住んでいた頃の自室とは違う。自室と言うよりは寝室。一番風通りが良いからと寝室に決めた畳敷きの和室。そもそもここは、紫呉の家ですら無い。
「……」
思わず左手を見てみる。手首に戒めの為の、人骨と血で作られたとか言われるあの数珠は無い。代わりに薬指にシンプルな輪。
左手は少年の頃よりずっと骨ばって荒れている。世間に揉まれて辛酸を舐めながら、それでも確かな幸せを掴み取った男の手だった。よくよく考えてみれば、自分達には既に息子だって居る。
「……」
もう一度透を見る。そこに居るのは海原高校の青いセーラー服が似合う少女では無く、夾と苦楽を共にして支え合いながら生きてきた愛しい妻だった。同一人物でありながら、年月は彼女を可憐な娘からしっとりと落ち着いた女性へ変貌を遂げている。
夾としてはどんな透であろうとも、彼女への愛しさが変わる事など無いけれど。
「……」
眼が覚めた時の違和感はこれだったのかと、気が抜けて安堵した。身体から力と言う力が抜けて口から長い溜め息。
隣で寝ていた透が心配そうに見詰めてくるが、事情が事情なだけにちょっとそれを打ち明けるのは面映い。――だって夢見が悪かっただけだなんて。
眼が覚めた時にてっきりあの頃だと絶望してしまった自分が途端に恥ずかしい。塀の上なんて、とっくに飛び降りてしまったのに。
真夜中に起こしてしまうくらい心配を掛けてしまった。起こして悪かったなと言えば、出逢った頃から変わらず謙虚で慎ましやかな夾の妻は「いいえ」と即座に首を振る。――夾君が無事で良かったです。
……夢如きで無事も何もあったモンじゃねぇだろと思いつつも、心配を掛けさせてしまった手前、口にはしない。彼女の独特の天然さも慣れれば可愛い。
あの頃は。何もかも己の望みは叶う事無くこの手に掴めるモノなんて何も無いと諦めていたけれど。――こうして手に入ったじゃないか。
アパート住まいから始まった二人の生活は、長閑な山に囲まれた一戸建ての家が今の拠点になっている。幼い頃は親子川の字で眠っていたが、現在年頃の我が子も、今は自室で健やかな寝息を立てているだろう。
もう二度とこんな不吉で後味の悪い夢なんか見たくないと思って、起こしてしまった詫びに透の頭を撫でる。真っ直ぐな髪が良い。真っ直ぐな眼が良い。真っ直ぐな心根が良い。――真っ直ぐな。
その時、にゃぁんと遠く猫の鳴き声。「猫?」と思い訝しく思って一度横たわらせた身を半分起こせば、暑いからと窓を開け網戸だけにした縁側に野良と思われる猫が一匹。……田舎なので、多少無防備でも平気だから夜中であろうと窓を開けていられるのだが。
夜闇に慣れた眼でジッと見詰めれば、月明かりに照らされた白っぽい――白灰色の毛並み。キラリと碧い眼だけが煌いて。
「……」
まさかさっきの変な悪夢はお前が見せたんじゃねーだろーなと、ちょっと不気味に思った夾は視線で猫を脅し早々に追い返して、今度こそ透の頭を掻き抱いて眠りに就いた。
塀の上と言うお題を見た瞬間、「……猫ネタ?」と言う貧相な発想しか思い付かない自分。
猫と言ったら夾だよな、ってコトで『フルバ』。安直で済みません(爆)。
久は第一巻から夾×透派だったんだけど、最初の頃は寧ろ由紀×透の色が強かった(ように思える)ので、「やっぱり由紀とくっ付く展開になるのかなぁ」とずっとハラハラしてた記憶が。なので段々原作が夾×透へと向かっていったのは素直に嬉しかった。夾は『フルバ』で一番好きなキャラでもあったし。
『フルバ』で嫌いなキャラ、ってあんまり居ないけれど、あえて一番嫌いなヒトと言うと自分だったら紅野さん(…)。
ある意味優し過ぎるが故に、諸悪の一端を担ってしまう羽目になったヒトな気がしますが、しかしいくら逆らえない主に誘われたからって同情心だけで兄と慕う紫呉の想い人に手を出すのはなぁ…とか。このヒトのせいで、ちょっと(?)こんがらがっちゃった気がする。
コミックスが手元に無いので、イロイロおぼろげな部分が曖昧…。数珠は左手首にしてたと思ったんだけど、もしかして右手首に装着してたらどうしよう(ちゃんと調べて書けよ←びし)。
お題に沿っているのかどうか、と言うよりも先ずお話としてどうなんだ、ってカンジのテイストが強い、イマイチよく判らん話になっちゃったけれど、好きなジャンルで書けたので良し(←こうして妥協しちゃうからレベルアップしないんだよな久は…とか自覚してるんだけども)。
最後のきょんきょんと透君は、アパート暮らしから一戸建ての家にグレードアップ。一戸建ての家に住んでいるからには、息子もそれなりに大きいかな、と中学生くらいのイメージ。
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