子供なのに、大人みたい。
薫風が鼻を擽って、僅か漂った爽やかな木々の馨りに、あたしは頬を綻ばせた。
皐月に入ってまだ間も無い。涼やかな風が心地良い。
「――遙」
背後から、柔らかく低い声で呼ばれてあたしは振り返る。出逢った頃の綺麗に済んだ高い声は、もう出なくなってしまったと彼は少しだけ寂しそうに呟いたのは、随分と昔の事だ。
あれから何度、季節が廻った事だろう。毎年、この時期になるとあたしと夫――晴維は、生意気な少年を思い浮かべる。
今、あたしの髪を弄ぶように吹く風のように、どこか掴みどころの無い不遜な。
初めて逢ったのは、沈丁花の馨る頃。
お父様が病に伏して、懸命に看病したけれどお父様は逝ってしまった。お母様のトコロへ逝ってしまった。あたしは独りになってしまった。
かつては武道家として名高いお父様の弟子がたくさん居たこの道場も。子供で女のあたしには、道場を維持する力も無くて。
一人一人、次々に辞めていく彼等を必死で引き留めても、謝られるけれど出て行かれた。――あたしが、弱いから。
自分でも悔しい。惨めに思う。あたし、お父様の娘なのに。てんで弱いの。才能が無いのかと思うくらいに弱い。そんじょそこらの年下の子供にすら負けてしまう。鍛練を怠った事も、稽古をサボった事も無いのに。
お父様はいつも弟子に一撃で負けて気絶してしまうあたしに、苦笑だけして悔し涙を浮かべるあたしの頭を、いつも優しく撫でてくれた。
お父様の娘であるあたしが洒落にならないくらい弱いだなんて、悲劇を通り越して喜劇だ。お父様はそんなあたしに、愛想を尽かさないだろうかと、幼心にいつも怖かった。弟子や近所からの嘲笑や軽蔑より、お父様の苦笑が何よりも哀しかった。
お父様は、最期まであたしに「お前には才能が無い」と言わなかった。お父様の娘でありながらてんで弱いのも、「お前らしさだ」と言ってくれた。武道家の端くれなのに弱いなんて、お父様の大切な道場を維持出来ないと判っているのに、お父様は「道場なんか気にするな」と言い置いて逝ってしまった。
道場は、毎日鍛錬がてら雑巾がけして綺麗に保っているけれど。日々日々少しずつ色褪せてくる。才能が無いとお父様は言わなかったけれど、自分でも弱過ぎると自覚しているのだからきっと無いと思う。近所のヒトだってそう思ってる。実際、あたしはやっぱり弱い。
昨日だって、偶々走っていたら男の子に囲まれてたあたしと同じくらいの女の子を見かけて、「絡まれてる! いけない!」と思って助けようとして、でも一発で倒されちゃった挙句に絡まれてた女の子の方が返り討ちにしてくれた。情けなくて涙が出た。実際、あたしは心も弱いので見知らぬ女子が追い払ってくれた後、泣いてしまった。情けないと言うか恥ずかしい。
自分でも馬鹿みたいに弱いって判っているのに、それでも武道家を名乗る以上、あんな場面に遭遇したら助けなきゃ! って思うじゃない。でもそれで、結局自分がすぐ倒されちゃったら意味無いよね。悔しいし。
でも昨日助けようとして逆に助けてくれた女の子、初めて見る顔だった。引っ越して来たのかな? 何か綺麗な子だったから、男の子に絡まれるのも無理ないよね。
あたしは近所では「強い親から生まれた弱い娘さん」って認識がすっかり通っているから、近所の悪餓鬼なんかでもあたしを平気で馬鹿にする。実際、あたしが勝てた試しが無いから怖くないんだろう。
女の子は、華麗に撃退した後、あたしに手を差し伸べた。気遣うような眼差しが、ただ痛かった。――だから。
「有難う御座います」
そんな事言われるなんて、思って無くて。ビックリした。だってあたし、何も出来なかった。それどころか一発で倒されて、後は女の子の独壇場。思わず見惚れてしまいそうなくらい、鮮やかで綺麗な攻撃。
「私、悠遠先生のトコロに手伝いとして雇われた者なのですが…、どうにも、まだ来たばかりで。だから、嬉しかった…」
嬉しいのは、こっちの方。
強い女の子、にあたしは憧れているから。本当はこの子と仲良くなりたい。助けてくれた恩人だし、あたしは小さい頃からお父様や弟子に囲まれて鍛錬ばかりしてきたから、同性の友達も作れなくて。
ただ単に、正義感から助けようとしただけで、変な下心とか無かったんだけど。でも、あわよくば、仲良くなれないかな? なんて思って。
こんな弱くてダサくて、助けようとして助けられないどころか、逆に助けられちゃうような、武道の事しか興味無いようなつまらない女の子だけど、それでも友達になってくれる?
恐る恐る訊いてみたら、女の子は整った顔を一瞬キョトンとさせてから…綺麗に、笑った。
あんまりにも優しく綺麗な笑顔だったから、その前後もあってかあたしは何だかドキドキしてしまった。
彼女――名前は「ゐはる」と言うらしい。
ゐはるは、とても筋が良かった。
元々、喧嘩なんかした事が無いと控えめに笑うゐはるは、それでもお父様を思い出して基礎を教えてみたらあっという間に吸収してしまった。多分、お父様の弟子くらいには強くなれると思う。
良いなぁ、とあたしは思った。逸材はやっぱり、生まれ持った才能の良し悪しで決まるんだろうな。あたしには無い才能が、ゐはるにはあるんだ。凄く羨ましい。
もう一度「良いなぁ」と言うと、道場に有り余った白い道着をあげて現在それを着ているゐはるは、ほんの少し困ったように笑んだ。ここ一ヶ月の間に、あたしはゐはると少しずつ打ち解けて親友みたいな間柄になれた(と思う)。
そんな彼女はすっかり、周りから高嶺の花として認識されつつある。だって親元離れて奉公に来ているくらいだから、家はきっと貧乏なんだろうけれど、顔は整ってるし強いし綺麗だし控えめだし料理裁縫は得意だし、佇まいも穏やかで性格も優しいと思う。何だか悠遠先生みたい。あたしみたいな、女の子らしくない子と友達になってくれるくらい優しい。ままごとみたいなお稽古に付き合ってくれるくらい優しい。
だから近所でも、ゐはるに憧れてる男の子とかちらほら居るみたい。やっぱりね、本当に綺麗な子だと思うもん。あたしや近所の悪餓鬼と同じ、十一かそこらの子供だとは思えないよ。カッコイイのか綺麗なのか、どっちかにして欲しい。同じ女の子なのに、偶にドキドキさせられるってどういう事だろう。
あたしもお父様から「遙は可愛いな」って言われてたけど、それって身内贔屓の域を出ない程度だって、いくら世間知らずでもちゃんと自覚してますよ。
「皐月になったから、緑が鮮やかだね、遙」
ゐはるが穏やかに言うから、あたしも見習って外を見る。ゐはると一緒に居ると、流れる空気が和やかだと感じる。お父様が死んでから、あたしは必死に道場を維持しようと躍起になっていて、こんな風にのんびり子供らしく過ごすのを忘れてた。そういうのを思い出させてくれたのは、ゐはるなんだ。
やっぱりゐはるは凄い、と改めて思う。あたしと同じ歳なのに、あたしよりずっと大人みたいだ。あたしは親が死んでしまったから独りになってしまったけれど、ゐはるにはまだ親が居る。その親元を離れて、見知らぬ土地で誰かの家で奉公して生きていくのって、子供だったら凄く不安だと思う。少なくとも、あたしだったら無理だ。
不安なのを、ゐはるは特に隠そうとしているつもりは無いんだろうけれど、でもゐはるは何となく、そういう自分の苦しいトコロを誰かに見せるのって難しい子なんじゃないかな、って最近思うようになった。
だってゐはる、基本的に誰かに頼ったりしなさそうだし。自覚無いのかもしれないけれど、裏ではすっかり男の子の間では高嶺の花で、礼儀正しいから大人にも人気者なのに。あたし以外に、特定の親しいヒトを作ろうとしていない気がする。
あたしと親しくなったのも、成り行きって言うか予期せぬ展開、ってカンジ。まぁ、あれに割り込んで助けようとして逆に助けられるとか、普通だったらそんな展開、無いよね…。
せめてあたしくらいは、いつでもゐはるの味方で居たい。――その時は本当に。心の底から、思ったのに。
数年経っても相変わらず、ゐはるは高嶺の花で。あたしはやっぱり弱いままで。それでも仲良くやっていた。
ゐはるが、あたし同様女の子女の子した部分があまり無いのが助かっていた。誰それの恋の話とか、最近流行りのお唄の話とか、南蛮伝いの髪飾りの話とか。あたしあまりそういうのって興味無いし。だから普通に女の子の友達って居なかったんだけど。ゐはるもあまり興味無いらしいから嬉しい。
ゐはる、着飾れば絶対綺麗なのになー勿体無いなーなんて思ったりするんだけど、そういう話題を出された時困るのはあたしだ。それにゐはる、せっかく綺麗なのに何か翳りを帯びてると言うか。…暗い、訳では無いんだけど、大人びてるから大人しそうなカンジではあるけれど。
でも、最近あたしはどこかゐはるを避けてしまう。嫌いになったんじゃない。今でも好き。尊敬すらしてる。憧れの、あたしがこうなりたかった、理想の強い女の子。
でも、時々夢を見る。初めて逢った時の夢。その夢を見ると、心が落ち着かない。
邪魔すんな空手バカ、と頬に一撃入れられただけでノビてしまったあたし。気が付いたら、冷え冷えとしたゐはるがあたしを庇うように前に立ち、男の子数人をあっという間に撃退してしまって。
その時の、決して荒々しくない裾捌きや鋭い一撃、何よりも凛とした横顔がとても綺麗でカッコ良くて、馬鹿みたいにドキドキしてしまって。
ゐはるは女の子なのに。――そう、そう思う度自分はどこかで落胆してしまっている。落ち込んでしまっている。どうしてだろう、理由が判らない。「自分も同じ女の子なのに、どうしてあんなに違うんだろう」って言う嫉妬とか劣等感なのかな。ゐはるは友達なのに、あたしって嫌な子だ。
「……、」
ゐはるにドキドキするのって、変なのかな?
ゐはると居ると楽しい。お父様の娘のくせに素人より弱いあたしでも、惨めでもおかしくても、空手が好きなら好きな事してて良いんだ、って思えるから。
最初は意地だったけど、やっぱりあたし、空手が好きなんだ。「好きなら続ければ良いじゃない」と言うゐはるは、どこか寂しそうに見えて。
あぁ、そっか。ゐはるは働く為にここに住んでるんだから、好きな事すら出来ないんだ。――そう思ったから、せめてあたしくらいは、出来ないゐはるの代わりに自分の好きな事を堂々と続けたい。周りに馬鹿にされたって、ゐはるさえ馬鹿にしないでくれたらあたしは、それで。
「……」
あたしの、駄目なトコロでも。ゐはるはお父様みたいに、「それが遙らしいトコロだよ」って全部包みこんでくれるから。だから嬉しくてドキドキするのかな。
そうのん気に思っていられたのは、如月までだった。
――信じられない。
そう思ったのはあたしだけじゃ無いハズだ。ゐはる――本名は「香木原晴維」君って言うらしい――が、まさか男の子だったなんて!
これでゐはるにこっそり憧れてた男の子達は、かなり失恋した事になる訳か、とどこかぼんやりあたしは思った。や、だってゐはるを好いていた悪餓鬼、あたしの知ってる限りでも五人は居たし。世間ズレしてるあたしが知ってるだけでも五人なら、実際はもっと居そうな気がするよ…。
長く伸ばしてた髪をバッサリ切り落とし、憑きモノが落ちたようにどこか晴れやかな風情のゐはるは、どこからどう見ても好少年。
言われてみれば、ゐはるって女の子の割にはどこか筋っぽかった。成長するにつれ、手とか首とか、骨が目立つようになっていったと言うか。背丈もグングン伸びてって、出逢った頃は同じ目線だったのが今では頭一つ分。
道場で着替える時も、女の子同士だから「あたしは気にしないよ?」って何度も言ったのに、着替えてる時は頑なに後ろ向いたりして。
「……」
今思い返すと、あたし結構ふしだら(?)な事ばかりしちゃったような気がする…。で、でも! ゐはるを女の子だと思ってたらしてたんであって、そんなつもりでは!
あぁでも、思い出せば出す程恥ずかしい! 恥ずかしいよ! 明日からどうやって接していけば良いんだろう?
普通? 普通で良いよね? ふつう、ってどんなだっけ。普通、普通…。
普通、と心の中で何度も念じていると、不意に脳裏をよぎった光景。――何度も夢に見た、あの日の。
「……ッ、」
うわやだ、何でか頬が急に熱くなった。
どうしよう、偶にドキドキしてたのって、勘違いとかじゃ無かったんだ。
あたし最初から――初めて助けてもらった時から、ゐはるに恋(…で良いんだよね、うん)しちゃってたんだ。
どうしよう、と思う。
ゐはる――正しくは晴維が男の子だって明らかになって、周りも戸惑っていたけどあたしだって戸惑った。でも、ゐはるにしろ晴維にしろ、同一人物には変わりない。怜悧で涼しげで、でもどこか温かい美貌は女の子でも男の子でも、やっぱり変わらないのと同じように。
男の子達は自分のマドンナが男だと知って茫然自失、男に恋していたと言う事実と気持ちが切り替えられず尚ときめいてしまう(らしい)自分の気持ちとの板挟みで、彼をマトモに見れない気まり悪さで苦悩しているらしい。そ、そうなのか…男の子だって判ってても、やっぱりあの顔には未だときめいちゃうのか…。
逆に女の子は切り替えが早い、と思う。今まで興味も無いような素振りだったくせに、男の子と判った途端、何か…眼つきがこう…狩人っぽい。ような気がすると、いくらあたしでも判るんですが…。
ゐはるはどうなんだろう。そういう風に見られるのって、やっぱり嬉しかったりするのかな。
ちょっと顔合わせ辛くて、少し避けていたら、偶々夕餉の買い物帰りに商店街で同じ目的っぽいゐはる(本当は「晴維」だって判ってるけど…だって、つい…)を見かけた。何か、前に感じてた翳りみたいなのが見当たらない。あぁそっか、ゐはるはやっと自分を出す事が出来るんだ。悠遠先生を騙してた事に、心優しいゐはるが罪悪感抱かなかった訳無いもの。
そう考えると、自分だけの都合で避けてたあたしが恥ずかしくなった。いつでもゐはるの味方で居ると決めたのは、あれは嘘か、あたし!
気合を入れて自分を叱咤したら、あれだけグチャグチャ考えていたのが嘘みたいにスッキリした。今までの苦悩は何だったんだ。…あたしが何か思い煩うのって、意味無い事なのかなぁ。
あれからゐはるとは普通に接する事が出来た。ちょっとホッ。
ゐはるを通じて、悠遠さんとも懇意になれた。うわぁ、緊張する…。実はお父様って、句作が趣味だったんだ。もう色褪せてしまったけれどお父様の直筆で、扇とか襖に自作の句が書いてあるんだよ。
そしてお父様は、悠遠さんの…えーと、「ふぁん」? っていうのかな、そういうヒトだったので、悠遠さんの俳本も押入れに何冊かある。実は。
お父様が生きている時に、懇意になれたら良かったけれど、詮無き事だしね。直筆の句とお父様の名前を書いてもらった和紙を(うわぁ恐れ多い事だよ!)頂いてしまった日は、あたしはお墓を参ってから神棚に供えた。だってせっかくの! 家宝にしたいくらいの! お墓に備えちゃったらちょっと勿体無いよ、だからゴメンねお父様…。
男の子の彼には、未だについうっかり「ゐはる」と呼んでしまう。慌てて言い直そうとすると、彼はいつも変わらぬ笑顔で「そっちに慣れてるだろうから、別に良いよ」と許してくれた。――だからって、いつまでも「ゐはる」って呼ぶ訳にはいかない、甘えてはいけないと…あたしだって、判っていたのに。
一年後の弥生某日、悠遠さんがお父様と同じトコロへ逝ってしまった。淡々と葬儀を恙無く終えた後、子供みたいに泣きじゃくり、亡骸の入った棺桶に縋る彼が初めて自分より年下に見えた。あたしも哀しかったし、悠遠さんが死んでしまった事に泣いたけれど、ゐはるはまるで小さな子供みたいだった。
数日後には、ゐはるは元気こそ無いけれどいつも通りの生活に戻った。可愛げが無いと誰かが陰で言っているのを見た時は、悔しくて涙が出そうだった。――貴方達は、ゐはるの涙を知らないから。ゐはるがどれだけ悠遠さんを慕って、亡くなられた時に泣いたか、知らないからそんな酷い事が言えるんだ。
だから、あたしは傍に居てあげたいと思った。悠遠さんみたいに大人じゃないけれど、頼りにならないかもしれないけど、それでも。
『あ、ゐはる。あのね、あたし昨夜ゐはるの夢見たんだよ。――あのね、ゐはるとお花見に行く夢なんだ。悠遠さんも一緒だった。お弁当はゐはるが作ってくれて、五段重ねの重箱で、すっごく綺麗で「食べるの勿体無いなぁ」って言っちゃったんだ。そうしたら、ゐはるが「食べてくれないと困る」って、本当に困った顔して笑うから、三人で食べたんだ。悠遠さんも一緒だったからゐはるも嬉しそうだったよ。それでね、ゐはるの髪に桜の花びらが付いちゃって。ゐはるって髪長いから、桜の花びらが絡まるとすっごく綺麗だったんだ。ゐはるって美人だから、やっぱり桜が似合うよね』
本当にそんな夢を見たから、せめて元気出して欲しくてそう言った。――ら。
ヒヤリ、と怖いくらい冷たい眼。え、どうしてそんな眼をするの? 何か拙いコト言った?
狼狽えたあたしに気付いてか、ふと表情を和らげた彼はいつも通りになったけれど。あれは見間違いじゃない、ハズだ。あたし、何か気に障る事言っちゃったんだろうか。不安で恐る恐る「あの…、」と言い縋ったら、用があるからと先手打たれた。
それ以来――ゐはるが姿を見せなくなった。
来る日も来る日も、道場で待っていたけれど全然来る気配が無くて。何が拙かったのかも判らないまま、あたしは途方に暮れるしか無くて。
「どうしよう…」
理由も判らないのに謝るのも変だし、それって誠実じゃない気がする。向こうが避けてるって事は、つまり…あたしに愛想が尽きたって事なのかな、やっぱり。
何だか泣きたくなってきた。
雑巾がけしようと思った時、
「頼もーう!」
「!」
頼もう、だなんて言葉、何年ぶりだろう。ど、道場破りが来た!
お父様が存命の頃は、何度も聞いていた言葉。そして看板は、一度たりとも奪われなかった。……あたしが、跡を継ぐまでは。
お父様が亡くなって、半年後くらいにお父様の噂を聞いた道場破りさんが来た時は、あたしを見て凄くガッカリしてた。それでも青池操馬(あおいけそうま)の娘だと名乗れば乗り気になった。……それで、一撃で倒してしまって相手は益々ガッカリして、看板も気絶してる間に持っていかれた。
起きたら看板が無くなってて、凄く泣いたのを覚えてる。親しくなったばかりのゐはるが慰めてくれて、卑怯かもしれないけれど二人で『青池空手道場』の看板を新しく作った。
また…看板取られちゃう。
でも出ない訳にもいかないから、顔を出す。思ったより声が若いと思ったら、相手を見て更にビックリした。
――どう見ても子供だ。あたしより年下。
「…僕ちゃん、ここはね、遊ぶトコロじゃないよ?」
「知っている。道場だろう?」
そうだけど。
「遊び半分じゃない…よね?」
近所の悪餓鬼にすら負けるあたしだ。遊び半分に道場破りされても絶対負ける。
「俺の名は天野空知(あまのそらち)と申す。是非、手合わせ願いたい」
うう、何てしっかりした受け答え。これ絶対本気だ。遊びじゃないならあたしも真面目に相手するけど、看板持ってかれちゃうのは嫌だなぁ…。
でも、勝負は勝負!
「では、どうぞこちらへ上がられよ」
畏まったあたしの言葉に少年は頷いて、一礼してから流儀に則った所作で道場に入る。それだけで空気が張り詰める。ワクワクしてきた。
互いに礼をして構えて。
一本勝負は――やっぱり、負けた。
「……」
ごそ、と胸元で音がして遠のきかけた意識がそこで戻り、眼を開けたら子供があたしの上に圧し掛かり胸元を寛げているのでビックリして慌てて起き上がった。な――何て事すんの破廉恥な!
「な、なななな!」
「一撃で負けたのに、文句言うな」
「何ですって!?」
だからって、好きでも無いヒト――それも子供に肌をまさぐられて堪るか。
「お前、そんな弱くてよく今まで無事だったな。……さっきの俺みたいに、気絶してる間にヤろうと思えば簡単だ。お前みたいなヤツなら尚更好都合。…もっと真面目に強くなれ」
「……ッ!」
言われた事が怖過ぎて、ビクリとおののいてしまう。言われた事が酷過ぎて、涙が出てきてしまう。…そう、その可能性を、今まで考えなかった事なんて無い。流石にこの歳になったら、勝負に負けるのは昔以上に恐怖だ。
あたしなんてそこら辺の娘より弱いし、きっと簡単に犯される。
けれど「真面目に強くなれ」なんて言われたくない。誰よりもあたしが、一番それを切望しているのに…!
「お前、本当に恐怖を感じた事が無いからいつまで経っても弱いんじゃないのか。――生まれた時から、ずっと強いお父様が傍で守ってくれたんだもんな?」
「―――――――!」
カッとなった。何よそれ。あたしが死んだお父様に今も甘えてるって言いたい訳?
「……アンタに何が判るの」
「過去の栄光にしがみ付き、落ちぶれた道場に現実を見ない哀れな小娘よ。栄光は過去のモノ。元より、お前が築き上げたのは栄光じゃない。――敗北だ」
「……!」
歯を食いしばる。黙って耐えるしかあたしには残されてない。子供の言う事はどれも悔しいけれど本当で、真実だからこそ胸に痛い。
「……こんな女に囚われて、アイツも哀れだな…。こんなのが趣味か」
「……?」
何か今、何気に失礼な事言われた気がするんだけど。
「何の話?」
今まで淡々と無表情で居た子供は、ふと笑った。何か嫌な予感をさせる笑い方。
「お前はゐはるを知っているか?」
「ゐはる!?」
知ってるも何も。友達だもん。
「ゐはるの事…空知君は知ってるの?」
「――「ゐはる」…。お前はあれを、未だそう呼ぶか」
「ッ、」
ゐはる。本当の名は「香木原晴維」だと…教えてもらった。本人の口から。そう名乗られた。町のヒトは大抵、もう彼を「ゐはる」と呼ぶ事は無い。――あたし以外は。
「異性として見るのが怖いか。……見捨てないと善良ぶりながら、変わってしまった友に恐れを抱くか。……偽善者だな」
「ッ、違…!」
「違わない。――だろう?」
「……!」
勝負を挑まれた時より、勝負に負けた時より、胸元をまさぐられそうになった時よりも――怖い。
「ずっと女子のままで居てくれたら……そんな複雑な感情、持て余すだけで済んだのに?」
「……!」
どこまで――読まれてるのあたし。
「男だと判った途端、持て余すどころじゃ無くなって? 自覚したそれが怖いから「ゐはる」呼び? 女子のままで居て欲しかったと言外に告げ続けて、あれを追い込んで、自分の心だけ守れていれば、確かに自分の心は平穏に保たれるよな。――この小さな道場で、かつての栄華を思い起こしてまどろむように。夢だけ見ていたい小娘よ、それがお前の友への接し方と言うのなら。……笑止だな」
「―――――――……!」
見抜かれた。全部、全部言い当てられた。
どうしよう、この子凄く怖い。助けて助けて――誰か助けて。
「……そう怯えるな」
ツ、と頤に意外と優しく指を掛けられ仰向かされる。何をされるのかとビクビクするしか出来ないあたしは、本当に弱い。
「あれを男として見るのが嫌なら、それもまた一興。…だが、無暗に傷付けて良いと言う言い訳にはならん。――友であれず、女としてもあれないのなら…いっそ切り捨てろ。さすればお前は、心の平穏を今度こそ強く守れるだろうよ」
きりすてろ。――そんな、子供が言う言葉じゃない。少なくともあたしの歳だって、中々そんな簡単に言えない。それに、例えそんな事をしたとして。本当に心に平穏が訪れるなんて。有り得ない。絶対無い。
「それも出来んのなら、無理やりにでもさせてやる。簡単だ。俺が今からお前を犯す。俺に傷付いて、二度と男に近寄れん身体にしてやる。俺がお前の心に癒えない傷を刻み込む。それが嫌なら、あれを無暗に傷付けて自分だけ守ろうなんて甘い考えは捨てて、あれごと潔く切り捨てろ。――さぁ選べ、小娘」
「選べ、って…」
そんな。急に言われても。
大体子供が、「犯す」とか軽々しく言うんじゃないの。め! とか言える余裕も無い。しかもこの子、多分本気だ。
ヤり方知ってるんだろうか。寧ろ初めてがこんなのって嫌だ。――あたし、は。
次から次へと予期せぬ出来事に、頭の中は既にいっぱいいっぱいのあたしの返答なんて最初から期待してもいないのか、子供は無言で道着の帯を解いた。
「や…!」
抵抗したいのに出来ない。ガッチリと手首を拘束されて、足の間に小柄な身体を割り込ませて閉じれない。暴れようとしても動けない。多分、寝技も仕掛けられてる。喉元をスルリと、まだ柔らかい子供の掌が這う。――うぁ。
「やだ…!」
徐々に下降してくる掌が、そろりと鎖骨を撫でて胸に触れてこようとして。耳を舌で舐められて。その感触に鳥肌が立つ。――駄目だってば!
「や…、やだってば…、あたしは、」
――あたしは。
「あたしは、晴維が好きなんだってば!」
涙眼で叫んだ瞬間、道場入り口の方でバサ、と音がした。首を巡らせて――硬直する。
「あ…」
見られた。見られた。ゐはるに――晴維に見られた!
子供に犯されそうになってるトコロなんて、見られたくなかったのに。
「す――砂於様!? 遙に何を…!」
――ん?
「砂於様…?」
去年の睦月から如月にかけて、正体を偽って悠遠先生の梅欲しさに通いつめてた童の話を思い出す。普段冷静なゐはるが、「まさか早蕨の砂於様とは知らなくて…」と珍しく興奮して話してくれたからよく覚えてる。
「え…空知君じゃないの?」
「お、ゐはるか。決心付いたか」
「決心って言うか、その…。じゃなくて! 遙に何してるんですか! 場合によっては、いくら砂於様でも容赦しません…!」
静かな怒気が漂ってくる。ここまであからさまに殺気を振りまく晴維って初めて見た。怖い。
「何。ちぃとばかし甘っちょろいから、からかってやろうと思うただけよ。凜気を起すな、ウザいんじゃ」
空知君(なのか砂於様なのか…)はよっこいせと言いながらあたしから退いた。
さっきまで、いやらしい行為をしようとしていた名残なんて全く見受けられない。子供にしては不相応な、あの艶はどこへいってしまったのか。
「後は小娘次第、っちゅう話をしとっただけだぜよ。ちと廻りくどくいくつもりじゃったけど、途中で面倒くさくなってイラついてな。荒っぽいのは承知で、性急に進めようと手を変えただけじゃ」
ニヤリ、とそこで淫靡そうに笑む。…それ絶対子供が浮かべる笑みじゃ無い。笑みじゃ無いよ…。
「はぁ…。じゃ、遙には何も?」
「なーんもしとらん。――なぁ?」
「……、」
嘘吐き。何が「何もしてない」だ! ……でも晴維も居る場所で正直に言える訳が無いから、口を閉ざすしか無くて。何この子。砂於様って本当に、噂通りの嘘吐きで性悪なんだわ。あたしの純情を奪おうとしたくせにー!
「それより、花落としたまま何阿呆みたいな面で突っ立っとんじゃ。花は大事にせぇ。お前より花の方がわしにはずっと貴いき、粗末にするならわしが許さんぜ」
「え? …あ、」
ビックリして落としちゃっただけだよね? 大丈夫、あたしちゃんと判ってるから。砂於様もそんな、晴維の事苛めないであげて…。
フワリ、と鼻先を掠める香気。――あ。
「沈丁花?」
「うん」
何となく照れ臭そうな晴維に、あたしも急に面映ゆくなって俯いた。さっきの言葉、絶対に聴かれちゃってるハズだから、どうして良いか判らない。
「遙、その…」
「うん…」
「本題に入る前に、一つだけ良いかな」
「うん…」
「…その、」
「うん…?」
「……帯、結んでくれないかな。さっきから道着がはだけて…その、見えるんだ」
「!」
……結局、想いが通じ合った後感極まって晴維にギュッて抱き締められてからハッと気付いたけど、空知君…砂於様? の姿はいつの間にかどこにも無かった。
カラン、と下駄を突っ掛けたまま晴維と共に外に出る。あの子はまだ近くに居るだろうか。
寧ろ悪名高い砂於様だなんて、晴維に言われるまで全然気付かなかった。晴維から聞いてた砂於様と、何か全然違ったんだもん。
大体。――天野空知って。誰よそれ。
道の遠くに、小柄な後ろ姿。今日初めてあいまみえただけだけど、特徴的な片方の髪の一房だけ若干長めの髪型はあの子だ。
「砂、」
「――申し訳ありませんが、お二人方。そこまでになさって下さい」
ス、と音も無く砂於様とあたし達の間に誰かが割り入った。あたし達よりと同じくらい? もう少し、歳は上かも。
穏やかそうな上品な笑みを浮かべたそのヒトに、振り向いた砂於様は厳かに彼の名を告げる。
「……空知」
あ。このヒトが本当の「天野空知」さんなのか。知り合いの名前勝手に借りてたんだな、悪い子。
「今後一切、砂於様との接触はお避け下さい」
「「!」」
あたしより、晴維の方が愕然とした。
「そ、れは…身分が、違うからでしょうか」
「あぁ、下々にも話の判る者は居るモノですね」
ヒトの好さそうな顔に浮かぶ笑みはどこまでも優しげなのに、口から出る言葉はまるで氷みたい。
「砂於様…」
縋るような眼で、晴維が男の向こうに居る砂於様を見た。否定してほしいという気持ちが、ありありと判るその表情。
「そうじゃな…」
「……」
「空知の言う通りじゃ」
「「!?」」
何を――言って。
「わしは忙しいんじゃ。お前等に一々顧みてられん。ゐはるの事は、わしにも責任があるから手出ししただけで、纏まるモンが纏まれば後はもう知らん。期待すんな。――もう二度と会わん」
「砂於様…!」
どうしてですか、何故! と叫ぶ晴維を、砂於様は冷ややかに見て。
「なら訊くが、お前等は路傍の小石を自分と同じ存在だと思うのか。――思わんじゃろう。それと同じ。わしにとっては瑣末事よ。勘違いすんな。わしはお前の友じゃ無い。家族でも無い。気紛れを理解出来んのなら、小石以下じゃ」
「……!」
何て酷い事を言うんだろう。――これが晴維も心許した少年だと言うのか。こんな子供に、晴維は心を許したのか。
「アンタね! 良い御身分だからって、黙って聞いてれば、」
「嘘だ!」
晴維が突然怒鳴ったから、あたしは途中で黙った。
「砂於様…、嘘ですよね」
「――「もう来ん」。…先日、そう言ったな」
「でも…あれは砂於様が嘘だと…」
「それこそが嘘だと言うたら、納得するか」
「……!」
蒼白になった晴維が見ていられなくて、キュ、と手を握ってあげる。温度の低い晴維の体温が、この時ばかりは切なくて。
「そういう事です。…では、お二人方御達者で。――行きましょう、砂於様」
「……あぁ」
一瞥してから、背を向ける。何て冷たい、小さな背中。あたしを押さえ付けた、怖い背中。晴維を絶望に叩きのめした、憎い背中。あたしはその背中を、ねめつけるしか出来なくて。
「晴維、晴維…大丈夫?」
「…嘘だ」
「晴維、信じたくない気持ちは判るけど、」
「あんなの、嘘だ」
「……」
可哀想な晴維を、あたしがさっきと反対に自分からギュッと抱き締めた。
皐月。
若葉がキラキラ。新芽がニョキニョキ。
砂於様は、あれから本当に全く姿を現さない。晴維はだいぶ元気になったけど、あの落ち込みようは凄かったからまだちょっと心配。
「晴維」
晴維が物書きになりたいって、つい最近初めて知った。あたしは一応、お母様に習っていたから簡単な漢字までなら読めるので、草稿を偶に読ませてもらう。本当は本とかあまり興味無いんだけど、堅苦しい文章じゃ無いからまだ読める。
「……ん?」
「どうしたの?」
「次の紙、どこ?」
「え、順番通り揃えてきたハズなんだけど…」
焦ったようにあたしの手から罫紙を奪って、パラパラ上から流し見た晴維は、「あ、本当だ。一枚抜けてる」と眉を顰めた。
「家に置いてきちゃったかな?」
そのままどっかに間違って挟んでないかとパラパラ流し見を続けた晴維は、最後の一枚で動きを止めた。
「晴維?」
「あ…」
そこには、何の変哲も無い草稿の一枚。けれど仄かに漂う僅かな残り香。どこか甘い馨りに思い当って、あたしはつい頬を染め俯いてしまう。――沈丁花。
「砂於様…」
「え?」
晴維の文字。罫の外の白い部分にきったない字。悪筆にも程がある。
『下手くそ』
「……どっちが下手くそなのよ」
どう見ても晴維の字の方が綺麗だ。
「違うよ、遙。…砂於様は、そんな判り易い子じゃ無いから」
ほんの少し、柔らかく晴維が微笑んだ。あんな手酷い事言われて、まだ砂於様を慕える晴維ってちょっと判んないなぁ。
「はは…、…砂於様は、やっぱり砂於様だ…」
嬉しそうに、それでいて泣きそうな顔で笑うから。何かちょっと面白くなくて、むぅ、とふくれっ面したら晴維に「遙可愛い」なんて笑まれて二の句が告げなくなる。……も、あたしベタ惚れ過ぎる。本当にどうしよう。
「な、何でそんな嬉しそうなの」
「だって、砂於様はやっぱり砂於様なんだもん。――やっぱりあの言葉は、嘘だったんだな、って」
「……何でそんな事判るの?」
男同士の友情は、言葉で推し量れるモノじゃないから? それってズルい。盛大にズルいと思います!
「砂於様はあぁいうヒトだから、本当に興味無かったらこんな事書かない、きっと。自分の痕跡と言う痕跡は、絶対残さないで消えるヒトだと思ってるから。…だからこれは、僕の為の砂於様なりの激励かな」
ツ、と長い人差し指が『下手くそ』と描かれた下手過ぎる文字をなぞる。
「それに砂於様って、もっと綺麗な字書けるんだよ。でなかったら悠遠先生の代筆なんて、務まらないし」
こんな下手な字書いたのは嫌がらせかなー? なんて言いながら笑顔なんだもん。嫌がらせされて嬉しそうなあたしの恋人って一体…。
「……でも、」
「何?」
「あの子、晴維の事「ゐはる」って呼んでた。自分の事は棚に上げて、あたしには…」
「遙には、何?」
「え、否何でもないデス。」
言える訳無いでしょ犯されかけたとか。
「それは僕も最初不思議に思ったんだけど、思い返してみれば納得なんだよね」
「どーして?」
「だって僕、そういえば直接あの子に自分の本名教えてないから。人伝に聞いて知ってはいても、僕の口から直接名乗られていないのに「晴維」の方を口にするのって、あの子的には礼儀と言うか自分の中の信念って言うか、そういうのに反してるんじゃないかな?」
な――何ですと?
「一度くらいは、名前で呼ばれてみたかったなぁ」
なんて。切ない顔でしんみりする晴維に、「あたしが居るから元気出して」と、あたしは頭を撫でて慰めた。だって。晴維を独り占めして良いのは、あたしなんだからね!
幾度も、季節は巡って。
早蕨家は名家だし、真艫様も砂於様も個性的で有名だから、何かと噂は流れてくる。
真艫様がお亡くなりになられたとか、砂於様が婚約者を迎えたとか、……イロイロ。
そんな砂於様は、地元一帯を震撼させる出来事を起こし、その後帝都へと発った。何でも、天下の帝大に受かったそうで、何かもうあらゆる意味で規格外な子なんだなぁと思う。
彼に纏わる噂は、彼自身話題性がある立場と人格なせいか派手で、どれもこれも尾ひれが付いてどこまで真実か判らない。そこが既にあの子そのモノのようなのだけど、噂が不穏なモノばかりだったから、あたしは元より、晴維も凄く心配した。
そんなあの子が帝大。文化の中心、帝都。
晴維は婿養子に来てくれて、道場で弟子を教える傍ら、執筆作業にも専念している。あたしもあれから驚く程の成長で強くなった。あれだけ切望していた強さが、心の在り方を見つめ直すだけで手に入るって…あたし、才能が無かった訳じゃ無かったんだ。ただ単に、ひたすら弱くて甘ったれた小娘だっただけなんだ…。そんなあたしも、今では正真正銘の師範。
本当に守りたかったのは、道場とか看板とか栄光じゃ無くて、もっと素朴で当たり前の事。それを教えてくれたのは、悔しいけれどあの生意気な子供だ。
皐月香るそんな青池道場に、一通の電報。晴維の著作が文壇に認められたという、重大な内容だった。
その日は二人で御馳走作って、ずっと喜び合った。好きなヒトの努力が実って嬉しい!
晴維のは私小説じゃ無くて時代小説と言うらしい。その割に、娯楽性は少ない方だと思うんだけど、まぁどっちにしろこれで晴維は晴れて作家の仲間。
その吉報から一週間後くらいして、益々緑が深く鮮やかになりつつある日、またしても一通の報せ。今度は手紙。
宛先も無くて、でも字が下手くそで、どっかで見た気はするんだけど…と思いつつ晴維宛てだったので素直に渡すと。
「……。……!?」
最初は首傾げて、でもすぐ思い当ったのか、ハサミも使わず乱暴に手で封を開けて。そんな乱雑に手紙扱う晴維なんて初めて見たから、誰からだろう? って思ったら。
白い紙に、たった一文、宛先とは似て非なる、見事な草書。あたしは草書なんて読めないから、晴維に読んでもらう。
「何て書いてあるの?」
「――『この道より、われを生かす道なし。この道を歩く。』…。武者小路実篤だよ」
たったそれだけ。他には何も無し。あたしに意味はよく判らない。――それでも。
たった一つ、判った事はある。
こんな変な一文で、オメデトウの一言も無く。労っているのか、喜んでくれているのか、それすら謎だけど。
「ね、晴維。これ…」
「――うん」
大事そうに指先でなぞって。晴維は微かに微笑んで丁寧に紙を折り畳むと、封筒に入れ戻した。
きっと、あの子からだ。――それだけが唯一、あたしに判った事だった。
遙視点。段々砂於の出番が無くなってくる…。まぁ、前回に一番強く密着した内容なので時間軸もほぼ皐月じゃ無い訳ですが。
お題のタイトルと合ってなさそうですが、いろんな意味で「目覚める」遙というコトで。無理やり過ぎるけど笑って許して。寧ろ今回、砂於のオイタが本気で冗談キツいな。
憧れだった同性の友人が、実は男の子でした☆なんて展開になったら、普通に女の子女の子してる娘ならともかく遙みたいな娘は中々切り替えが巧くいかないんじゃないかなぁ。晴維と二人して、自分の恋心に振り回されてれば良い。
それにしても、シリアスなふりしてこのオリジナル、実はギャグなんじゃないかと思う。女装男子とか空手道場の跡取りなのにウソみたいに弱い娘さんとか、何より一番人間として問題ありそうなガキにしたり顔で説教されるとか、これホント屈辱だと思うんだけど(笑)。
お題は『
Fortune Fate』様から。リンク先変わられたもよう。
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