背筋を走り抜けたのは、一瞬。
俺は早蕨家に代々仕える家系の人間なのだけれど、それは表向きの事であると、物心付く頃には教え諭されていた。
元々、天野家も大層な家柄らしい。平安の時代に早蕨と権力争いの末に敗れ、主従の契りを結んだが、下剋上は当時の当主同士の意向により、何故か認められている。――つまり、おかしな話だが隙あらば取って代わる事が許されているのだ。従者の立場から早蕨を蹴落とし、いつか主人の立場となりてかつての主――早蕨を足で使う…それをする事が許されている。
ちなみに、あくまでも天野家の人間がその約定の為に早蕨の人間を蹴落とすのは良しとされているだけで、他の者が早蕨に害をなせば尽力をもってこれを排除し、早蕨を守り通す事が根底にある。従者であれば当然の事。
早蕨に絶対の忠誠を誓いながら、裏で虎視眈眈と牙を砥ぐ。双方にとっては、それが長い歴史の中で定められた暗黙の了解だ。それをしろと、幼い俺は母に教えられた。そして疑問を抱くまでも無く、すんなりと納得した。
早蕨家の人間はおかしな人間が多かったと訊くが、天野家も負けず変人揃いだ。
しかし、平安に敗れ配下として頭を垂れてから数百年、未だ下剋上は成功されておらず、今日も清々しく早蕨は栄光に満ちている。
俺の二つ下に、真艫様がいらっしゃる。
だから俺は、お身体の弱い真艫様の従者になる事が二歳で既に決まっていた。
さてこの真艫様、病弱で儚げで、女性のように繊細なお顔立ちから、どうにも頼り無く感じる。事実、彼は己の環境からとても聞き分けの良い御子であるので子守は楽だが、大人しくて良い子で、俺は彼の手のかからないトコロが好ましいけれど、その一方では酷くつまらなく思った。
文机に書物。肩に衣一枚。真艫様は穏やかに日々を過ごす。ゆったりと、それでいて単調な。
そして――第二子が誕生した。
二人目も男児だった。
名前は砂於と名付けられた。産声からして元気が有り余る程喧しい赤子は、正真正銘真艫様の弟君であらせられる。
それにしても、真艫様が生まれた時はもっと静かであったらしいと聞いて、何となくあの生気の無い美しい主は生まれた時から薄弱であったのかと納得した。
同時期、俺の弟も生まれた。名前はやはり、母が名付けた。
「――空知」
母に呼ばれて、居住まいを正す。
「母さん」
母は天野の人間だ。父は入り婿なのだが、どうにも気弱なヒトで愚鈍だと思う。
その点、母は天野の人間だから、たおやかを装ってはいるが蛇のようなうそ寒さを持ちえている。
華奢で玲瓏な女なのに、このヒトに見据えられると俺は心臓を掴まれたような気分に陥る。それなりに、愛情を持って育ててくれていると思うのに。それ以上にこの麗人を、俺はどこか恐れている。
そんな母から、しっとり青臭い匂いが漂っていて思わず顔を顰めそうになった。――この色魔。
俺の母――空木(うつぎ)――は、淑やかな素振りであるがその実態はそこらの女と同じだ。否、それ以上かもしれない。とにかくあちこちで密やかな艶聞が絶える事は無く、正直、俺は本当に父の子なのだろうかと思う時もある。
俺は見た目も中身も、恐ろしい程に母似なのだ。違うトコロと言えば、十四にもなって未だ性欲が薄いトコロくらいか。寧ろ、全く興味が湧かない。何が愉しくて、他人に肌を触れられなければならないんだ。
まぁ俺はまだ十四だし、もしかしたらその内化けるのかもしれないが。母のように老若問わず誑かし、甘い蜜を啜るのが愉しくて仕方なくなったら、俺は本当に母の息子なのだと諦めるしかないのだろう。
「何でしょう」
「真艫様はいずこに?」
「お部屋にいらっしゃらないと?」
真艫様はまだ十二なのに。もう手を付ける気なのだろうか。それとも、もうとっくに手を出しているのだろうか。あの病弱な子息に夜伽なぞ、まだ早いと思うのだけど。迂闊に興奮させて、心の臓が危うくなりはしないか。――それとも、それも狙っているのだろうか。
だとしたら天野としては、真っ当な手段だろう。下剋上に目下の邪魔は当主の颶嵐(ぐらし)様なのだろうが。
「えぇ、そうなの」
「それは…大変だ」
普通の立場の子供であればともかく、早蕨の跡取りで病弱な彼。どこへ雲隠れしたのか謎だが、行方は把握しておかねば後々面倒だ。
「判りました。探してきます」
決して、欲求不満(なのだろう、多分)な母の為に探す訳ではない。
真艫様の部屋へ行ってみる。案の定、もぬけの殻だった。ある意味良かったと思う。あの好色な母に捕まったら、精魂根こそぎ搾り取られそうだ。
外に出る。書物の類をしまいこんだ蔵に引き籠っているかもしれない。あそこはカビ臭く埃っぽい場所だから真艫様の身体には良くない場所だが、真艫様は日頃外で遊べない代わりにたくさんの本を読む。
蔵にはしっかりと閂が掛かっていた。と言う事は、真艫様はここにもいらっしゃらないという事になる。――さて、どうしたモノか。
考えながら、庭に廻ってみた。四季折々の花が楽しめるようにと造られた庭に、紫陽花が咲いている。
「宙(ひろし)」
「兄さん」
真艫様は居なかったが、弟なら居た。七つ下の弟は、いつ見ても濃茶の瞳があどけなく、それでいて天野の人間とは思えない程真っ当だ。
「どうした? そんな顔して」
「兄さ…、」
泣きそうな顔の宙に目線を合わせる為、内心の苛立たしさを押し殺ししゃがんでやる。
「僕…もうやだ。砂於様の面倒、見きれない…」
またか、と俺は嘆息する。この泣き虫で素直な弟は、砂於様に振り回されてはしょっちゅう泣きべそをかいている。
本当に、こんな家に生まれてきたのが既に不幸な弟。可愛い愛しい、哀れな弟。
俺は、初めて聞かされた時にすんなり納得した。普通ならば葛藤の一つはして、衝撃に絶望するハズだ。しかし俺は何一つとして疑問を持たなかった。僅かなしこりは今もあれど、明らかにおかしいこの関係に疑問は抱かなかった。
天野の人間とは、そういう者なのだ。真に仕える主の寝首をかき、玉座から引き摺り落とす為に腹で画策する。それが当然のように出来る。――普通なら、こんな従者はおかしい。あってはならない。
けれど天野の人間は、そういう者の集まりだ。寧ろ血が、そういう者なのかもしれない。だからこそ、普通ならば至極真っ当な感性である宙は、天野にとっては異端でしかない。
正直な話、俺はこの弟を鬱陶しくて仕方ない時がある。可愛いとは思うし、哀れにも思うが、それ以上に「天野に生まれたくせにこの根性無しが」と思ってしまう。
「判ったから泣くな」
俺は正直、大人しい真艫様よりも爆弾みたいな砂於様に仕えた方がよっぽど面白いと思う。幼く無邪気で。それでいて飄々と嘘が得意な子供。生意気で、矜持が高くて、他人を睥睨するあの子供。
それもあるのだろうか、時折宙を酷くウザったく思ってしまうのは。
「宙。真艫様は見かけなかったか?」
「真艫様…」
宙はふわ、と泣き顔にほんの少し笑みを浮かべた。その可愛らしいはにかみ顔が、真艫様を心から慕っているのだと言外に告げている。
真艫様は親からも下々からも概ね評判が良い。悪餓鬼な砂於様に振り回されている身としては、真艫様のように手がかからず下々にまで細やかな気配りを見せる出来た主は羨ましいのだろう。何かにつけ「兄さんは良いなぁ」と本気で呟く弟は、真艫様にすっかり骨抜きだ。
「ううん、見てない」
「そうか…」
「兄さん、砂於様見なかった?」
「否、俺も見てないな」
「そっか…」
兄弟揃って雲隠れとは。お忍びで外にでも出ているのだろうか。だとしたら屋敷内を探すのは意味が無いし、帰ってくるのを部屋で待つ方がずっと有意義だ。
「砂於様は、お部屋にいらっしゃらないのか?」
「うん。気が付いたら居なくなってた…」
また体よく撒かれたのだろう。父に似て、どうにも気弱で少し愚鈍な宙に、個性豊かな砂於様は荷が重かろう。
「……」
俺は俯いた弟の頭を一撫でした。慰めなのか愛しさからか兄としての義務感からなのか、自分でも判らなかった。
結局、夕飯時に二人は戻ってきた。
真艫様は砂於様を可愛がっているが、砂於様は兄に懐いていないので、私事で真艫様と共に行動するのは珍しいと思う。
「「「お帰りなさいませ」」」
「ただいま、空木。空知。宙」
「あー腹減った」
キチンとただいまを言う真艫様と違い、欠伸をしながら厨から漂う醤油の匂いを気にする砂於様。相変わらず対照的な兄弟だ。自分達も大概似てないが、それにしてもこの兄弟は本当に似ていない。
「ほれ」
「?」
宙に砂於様が何かを差し出す。弟が慌てて受け取った。
「土産じゃ」
「……!」
挨拶すらしない礼儀知らずの傍若無人な砂於様だが、こういうトコロが憎めない御方だと思う。宙が泣きべそをかきながら、それでも砂於様を本当に嫌えないのは、彼のこういう魅力なのだろう。
「え、あ、有難うございま…」
――カタカタッ
礼を言いかけた宙の手の中で、不意に箱が音を立てて揺れた。
「……」
「どうした? 開けてみぃ」
ニヤニヤと意地悪そうな笑みを隠しもしない砂於様に、途端宙は泣きそうな顔になる。――そんな苛めてオーラを出してばかりだから、お前は苛められるんだ。
俺は舌打ちしたいのを堪えて、弟の手の中にある小さな箱を見る。
「……」
そろり、と宙が怖々開けた瞬間、
「ぶっ!?」
ぴょん、と中から結構大きな蛙が弟の顔に飛び付いた。うわああああん、と宙が泣き叫んで蛙を振り払い廊下を走り去るのを、真艫様と母と俺は取り敢えず見送るしか無かった。
砂於様は悪戯が成功したのが嬉しいのか、振り払われ地面にべしゃりと落ちた蛙を捕まえるとカラカラ笑う。
「アイツは本当に弄り甲斐があるのぅ」
砂於様はそう言ってから、不意に俺を見た。――この子供の瞳は、時として物凄く深い色を湛える。深淵の如き純黒にひたと見据えられ、俺は何故か背筋を伸ばした。
「お前にやろうか?」
「……はい」
可愛げも無い蛙を恭しく受け取る。蛙は天野のようだ、と俺は常々思う。それを見破られたのだろうかと、俺はほんの少しだけ背筋が寒く感じた。
空知、と呼ばれる度に。それが自分の名だと自覚する度。俺は鼻で笑いたくなる。
空を知る。何とも厚顔不遜な名前。従者でありながら、いつか主を蹴落とし自分こそが天に昇ると、我ら一族こそが天に相応しいのだと。それを隠さない名前。それを隠さない態度。
天野家の人間は、そうやって代々、天に関する文字を子の名前に入れる。何百年も前からの下剋上の意思を、決して忘れないように。名前にすら、深く深く、楔のように深く刻み込んで。
それはもう、一種の呪いだ。俺もいつか結婚し、子を授かればそういう名前を付けるのだろう。そして天野の本願を、年端もゆかぬ我が子に教え込み、呪いと言う名の宿願を植え付ける儀式が完成する。
天野は早蕨に仕え、早蕨を油断させ、その喉元に牙を突き立てる為に存続しているのだと。
けれど、時代は鎖国も終わり、開国もして益々殺しが難しくなっている。いい加減、早蕨もこんな馬鹿げた約定を破棄して、天野の牙を折り取って、完全に支配してしまえばいっそ諦めも付くのに。
颶嵐様はどういうつもりで母を抱いているのか。まぐわいは、一番寝首を掻かれ易いと子供の俺にすら判るのに。彼は母の誘惑を、いつも泰然と受け入れる。純粋に愉しんでいるのか、何か思惑があるのか。
隙あらば自分を殺すかもしれない相手と閨を共にする豪胆さは、流石と言うしかないのだろうが。
それとも、ただ単に母に負けじ劣らず颶嵐様も大概好色なだけかもしれないが。
げこ、と潰れたような声に、俺はハッと我に返った。
「はいはい。餌はコオロギだぞ」
俺は砂於様に与えられた蛙を、どうしてか世話する事に決めた。「わざわざ蛙を飼うなんて」と母は眉を顰めるし弟は気味悪がるし、俺も正直、蛙は自分のようで好きになれないのだが。
あの砂於様が下さったモノだからと、俺は気紛れを起こしたのだ。
「井の中の蛙、大海を知らず…か」
この諺は、正に天野そのモノだ。己の器量も弁えず、天に昇って空を我がモノにしてみせると…先祖代々の本願とも言える呪いを、俺も充分に身に受けておきながら、それでも思うのだ。
俺が染まらない宙を疎ましく、それでいて妬ましく思うのは、そういう気持ちの裏返しなのかもしれない。
俺は天野らしくない弟に苛立ち失望しながらも、心のどこかではそんな宙を羨ましく思っているに違いなく。――そう思っているのは、俺が何の疑問も抱いておらずすんなり納得しているくせに、どこか染まりきれない自分が居るという事だ。自分が不甲斐無いと、重々自覚している。
俺は正に蛙だ。天野空知。何て不遜な名前だろう。空を知る者になれと、お前こそが早蕨の首をかき切れと。母の願いの重さに時折押し潰されそうになりながら、己の小ささを改めさせられる。
だからだろうか、蛙は好きになれないが親近感が湧く。
蛙は空を飛べない。海の広さも知らないで、ただ井戸の中で自分の大きさを錯覚している。滑稽極まりない。――だが、それが天野なのだ。少なくとも俺はそう思う。
「お前は、井の中で暮らしている方が幸せなのかもしれないな…」
コオロギを食べる蛙に、俺は呟いた。
餌をやってから、蛙を籐で編んだ籠の中に戻す。蓋をし、紐で括りそれを持ち、庭に出て池の中に籠を吊るした。
あまり大きな籠では無いから、飼い殺しにしているようで気分が悪い。蛙にとって今の俺は、まるで早蕨の人間のようだろう。
踵を返そうとした矢先、塀の上に何を見た。夕日の逆光でよく見えないけれど、俺には判る。誰もが無視出来ない、夕映えよりも鮮やかな存在感。――砂於様。
「またそんなトコロから…」
「一々門扉まで廻るのは面倒なんじゃ」
忌々しさを隠さず呟く砂於様は、猫のような身のこなしで降り立ち、池から出て石の下敷きになった紐を見る。
「……わしがくれてやった蛙か」
「はい」
砂於様はそっと石をどけ、紐を掴み籠を引き上げる。
中の蛙はぬらぬらと夕日の赤に照らされて、不気味な色を醸し出していた。
「名前は」
「無いですよ」
そこまで愛情を傾けてはいない。世話をしているのは、あくまでも気紛れだ。明日になったら飽きて、籠から放り投げているかもしれないのに。
「ふぅん…」
砂於様は籠の中の蛙を、どこか優しい眼差しで見た。砂於様のそんな顔は、初めて見たから。
「……ッ、」
少し、動揺してしまった。瞬間、背筋を熱い何かが駆け抜ける。ドクリ、といつもは穏やかな鼓動が何故か早まった。
「…砂於様、」
「空知」
「……」
「――『井の中の蛙、大海を知らず』…」
「!」
「…『されど空の高さを知る』」
「!?」
一瞬、言葉に詰まった。砂於様は意外と博識だが、しかしこれで宙と同じ歳なのだから全く不思議だ。
弟は本当に普通だ。普通過ぎてつまらないが、それは裏を返せばこれと言って欠点の無い、本来の子供として正しい姿。
その点、俺が言うのもなんだが、砂於様は子供らしいのか子供らしくないのか、その時点で判断に困る。
だからだろうか、俺が砂於様に魅かれるのは。
「……それは確か、何年か前(※幕末)に志士が負け惜しみで吐き捨てた造語でしょう」
「お前にピッタリじゃと思うてな…、気に入らなんだか」
寧ろこの歳でそこまで知識が行き渡った砂於様は、本当に得体が知れない。「忌まわしい」「厭わしい」とかの親が、日頃の素行以上に砂於様をどこか倦厭する理由が少しだけ判る。――砂於様の恐ろしさ。
砂於様は、賢いヒトだ。けれど周りからは、「賢しい」と思われている。「賢い」と「賢しい」は、同じ漢字で意味も似たようなモノだと思うが、そこに込められる気持ちは雲泥だ。
「ふふ…お前でも動揺する事があるんじゃな」
見透かすようなその眼が、酷く気に障る。深淵にも似た深い闇色は、俺を捉えて離さない。夕焼けの赤が砂於様を彩って、子供を酷く朱い色に染めた。
「……ッ、」
内面を、探られたのだと。悟って俺は唇を噛み締めた。――こんな子供に。
そんな俺を、どこか突き放すよう眼差しで砂於様は黙って見ている。俺の葛藤、困惑、諦念、憎悪。全て見透かした上で挑発している。その眼が怖いのに、何故か眼が離せない。ずっと見ていたい、ずっと見つめられたい。
あの、罪を断罪し罪を認め罪を溶かし罪を赦さない眼で見られる事の、後ろめたさと満足感。――ゾクリ、と背筋にもう一度。
「おいで」
と蛙を籠から出してやり、大人しく掌の上に乗った蛙を砂於様はそっと撫でる。濡れた身体を指で拭われる度、礼なのか抗議なのか、蛙がその都度「げこ」と鳴いた。
本気で嫌なら跳ねて逃げているだろうから、多分蛙は嫌ではないのだろう。その身体に触れる砂於様の指は優しくて、眼も先程俺に向けたのとは違ってひたすら優しい。面白がる顔をしていても、動作は慈しみに満ちていて。
「……」
無意識に、俺は拳を握り締めていた。
砂於様は美しいモノが好きだが、生き物とか植物とか、とにかく人間以外のモノが好きなのだろうと偶に思う時がある。
砂於様は美しいとは思えない、変な生き物も好きだ。虫も好きだ。蝶のように綺麗な生き物が好きなのは納得出来るが、蛾のように美しいとは思えない、気味の悪い生き物も何故か好む。
美しいモノが大好きなくせに、そういうトコロは珍しい。寧ろ他のヒトでさえ、蝶はともかく蛾を好む人間は少ない。毒蛾すら愛する砂於様は、人間を忌み嫌っているような気がしてならないと、俺は時折思っていた。
そんな砂於様の髪の一房は、蝶が飾られていた。本物のようだが違う。よく見ると硝子細工で、飴のように透き通った色硝子がとても綺麗だ。
「……綺麗な蝶ですね」
「おぉ。長崎の工房で手に入れた」
気に入っているのだろう。黒淵に黄色と蒼。アゲハを模した高級そうなそれは、普通子供には似つかわしくないのに、何故か男児の砂於様にはこの上無く似合って見える。夕日に照らされて赤みを帯びた硝子の蝶は、いっそ不吉な程に禍々しさを湛え不気味な美しさを放っていた。
不意に、砂於様の髪を飾るそれを壊してみたくなった。
俺は勝手に砂於様の御髪に触れ、硝子の蝶を紐ごと強引に解き(痛、と子供の悲鳴を聞いた)、その勢いのまま地面に思い切り叩き付けた。
カシャーン…!
庭石に当たった繊細な音。砕け散る色硝子。驚きに眼を見張る子供。夕焼けの空は毒々しいまでの赤で。音に驚いた蛙が彼の手の上から逃げ出して、それを思い切り踏み付ける。グチャリ、と嫌な感触と「げこ」と最期の鳴き声。耳障りな醜い声を出した生き物の、ワラジの裏から滲み出た赤黒い液体が草を汚す。俺の行動に一瞬、顔を顰める砂於様。俺はそれを一部始終、他人事のように見ていた。
俺はとんでもない事をした。けれどそれより、砂於様の反応が見たかった。血が驚く程目まぐるしく体内を駆けている。俺は多分、今まで生きてきた中で一番興奮していた。気を抜けば高笑いすらしてしまいかねない。否、気付いてないだけでしているのかもしれなかった。
「……」
砂於様は瞠目していたが、やがてすぐ落ち着いたのか無表情になった。どこか憐れみを帯びた子供らしかねぬ双眸が俺を貫き、俺の中で言いようの無い不可思議な感情が走る。
例えるなら――歓喜と苛立ち。
言い当てられた。それも七つも下の餓鬼んちょに。見据えられる。その瞳の深さは俺を捉えて離さない。黒い。この世は美しいモノも汚いモノもたくさん溢れ返っているが、順番を付けるなら俺にとってはこの子供の瞳こそがこの世で一番美しく、そして一番汚らわしい。
彼の眸は美し過ぎて、眼に移るモノ全てが汚いモノでしか無くなるのだ。だから彼は、己の眼がこれ以上穢れないように美しいモノを欲しているのだ。美しいモノを見て、美しいモノを愛し、美しいモノで美しい自分を保とうと。
砂於様は美しいモノが好きだ。そして人間が嫌いだ。それは人間こそが、正しくこの世で最も汚らわしく、最も忌まわしく、最も厭わしい存在故に。
砂於様が美しいモノを好きなのは、そういう理由に違いないと俺はこの時確信した。――当然だろう、彼程この世で美しい生き物は居ない。彼は人間では無く獣なのだ。美しい獣だからこそ、俺は。
「……」
今更、納得してしまった。俺は。
俺はずっと。
この人間に。この獣に。この生き物に。こんな風に見詰められたかった。この美しい獣の関心を買って、誰よりも近く、誰よりも傍に居たかった。
この子供は面白い。そして俺の興奮を掻き立て、鎮める事の出来る唯一の存在だ。砂於様の抗いがたい引力を解せない弟の愚鈍さを、俺はいつだって歯噛みして見ていた。
「…砂於様」
俺は今、どういう眼でこの子供を見ているのだろう。
今まで性欲すら湧かなかった俺の身体が、今では嘘のように興奮している。発情もした試しが今まで無かっただけに、鎮め方も当然判らないけれど、きっと砂於様なら鎮められる。
「……。わしのせいか?」
まだ幼い、情事の意味も判らないような歳の子供に、胡乱げに見られて。軽蔑と、憐憫と、諦念と、拒絶と、嫌悪。負の感情を強く込めた冷ややかな眼差しに、俺の背筋にまた新たな興奮が走り抜けた。――けれど、足りない。全然足りない。そんな理性で鎧おった知的な眼で見られるだけでは、俺の嗜虐と優越を慰める充足感がまるで足りない。
もっと強く、もっと烈しく、もっと赤裸々に――本音丸出しの感情を向けて見詰めてくれないと、物足りなさで心が渇く。
「えぇ、貴方のせいです、砂於様」
夕暮れの。すっかり暗い庭で。俺は砂於様にうっとり微笑む。
砂於様の発した一言が、俺を狂わせた。――否、より一層天野に相応しい人間へとさせたのかもしれない。
どっちでも良い。結果がこうなった。砂於様の一言は、砂於様にしてみれば失言だったかもしれないが。俺は構わない。寧ろ好機。
『井の中の蛙、大海を知らず。されど空の高さを知る』
そう、俺は蛙だ。そして天野の人間だ。
今やっと、俺はその事実を噛み締めた。
天野に生まれてきて良かったと、心の底から思ったのは初めてだった。
「……それなら、仕方ないんじゃろうな」
諦めたように、砂於様が嘆息する。きっと明日から、俺が仕える相手は真艫様では無く砂於様になっているハズだ。
――なんて可哀想な砂於様。
ずっと、一歩間違えば必ず天野の人間である俺が、染まりきれなかったのは。殺意を抱くにも値しない、真艫様が主だったから。天野が持って当然の狂気を、俺は幸か不幸か真艫様のせいで眠らされていた。
その俺が完全に目覚めてしまわないよう、あえて真艫様の傍に居るのを放っておいた砂於様。
ずっと、天野の人間になれない宙が落ちこぼれのままで居ても必要最低限困らないよう、宙を自分の傍に居させて天野と早蕨の忌まわしき楔から護ってきた砂於様。
それを、彼は不本意な一言で俺を目覚めさせてしまった。――ただ、俺を小さな袋小路から出させてあげるだけのつもりだったであろう優しさは、自身の首を絞める結果となってしまって。
今の俺は、もうさっきまでの俺では無くなった。この気高き美しい子供の視界に映る為なら、この厚顔不遜で飄々とした子供の意識を自身に向ける為なら、俺は今まで興味の無かった――今はもっと興味の無い真艫様だって意味無く殺せるし、宙だって容赦なく切り捨てられる。
この俺の狂気を理解してしまっている砂於様は、今後真艫様の傍に俺を置く事もしない。宙を自分の傍に置く事もしない。
俺を常に自分の傍に置き、時折思い出したように仕向けられる殺意を避わしながら俺を監視し、俺の忠義を受け俺の劣情に晒され俺の狂気を宥め俺の殺意を飲み干すしか、二人の事はもう護れない。
この誇り高く高潔で生意気な獣を組み伏せて、傷付けて、壊して、啼かせて、跪かせて、屈辱に耐える彼の顔を、髪を強引に掴んで挙げさせてじっくり鑑賞したい。
狂気にも似た情欲。情欲にも似た狂気。殺意にも似た献身。献身にも似た殺意。
どっちでも良い。何でも良い。考えただけでぞくぞくする。勃ちかけのそれを宥めるには、少々時間と場所が悪い。その事だけに舌打ちする。
この居丈高な子供に躓き忠誠の限りを尽くし、そうしていつか引き摺り下ろし、首に紐を付け、顎で使って飼い殺してやりたい。殺す時はどうしてやろうか。先程の、夕日の赤に染まり抜いたこの子は不吉かつ神々しいまでに妖しかった。きっと血の紅がよく似合う。血まみれになるよう一思いに斬ってやろうか。出来れば白装束を着ていて欲しい。血の色がさぞ白い衣に映えて美しいだろう。白装束――死に装束。白い衣と言うとやはり夜着か。想像しただけで今すぐ実行したくなる。でも駄目だ、今はまだ。
嗚呼でもしかし、殺してしまったらおしまいだ。一度殺したらもう愉しめなくなる。ここはやはり、下剋上を果たした暁には飼い殺しにするのが一番だろうか。今までの主従関係がガラリと変わってしまうのだ。今度は天野が――俺が早蕨に――砂於様に殺意を向けられる番。
あの砂於様の殺意を。この世で最も純粋で凶悪で強烈な強い剥き出しの感情を、この美しい瞳を持つ獣から向けられるのは――きっと今まで感じた事の無い快感に違いない。
想像するだけで達してしまいそうだ。体中の血が喚いている。
俺が今まで、すんなり納得しながらも真艫様に対してそのような想いに駆られなかったのは、真艫様にそういう気持ちが湧かなかったからだ。
気立て良く病弱な真艫様に殺意を抱く程、面白くない事は無い。俺が直接手を下す必要が無いくらい病の神に愛された彼だからこそ、俺は抱くまでもない殺意を眠らされていただけだ。
だから俺は、ずっと砂於様が良かったのだ。これは恋なのか愛なのか憎悪なのか狂気なのか、それとももっと違うモノなのか。――判らない。どうでも良い。
俺は確かに天野の人間なのだと、この時初めて真の意味で自覚した。十三の梅雨の季節、紫陽花が咲く庭での事だった。
嘘だ! と叫んだ子供に背を向ける。その背はいっそ清々しいまでに容赦無く冷たい。
「……良かったですね、砂於様」
「何がじゃ」
「あの子達、巧くいきそうじゃないですか」
「そうじゃな」
返事は短い。機嫌が宜しくないのだと、俺は知っている。
知っていて、ワザと神経を逆撫でし傷口に塩を塗り込むように、俺は空とぼけた口調で続けた。
「それにしても、砂於様。いつの間に女の肌なんて知ったんですか? それとも単なる冗談ですか?」
数分前にボロっちい道場で行われた少女と子供の秘め事一歩手前を死角で盗み見た俺は、その光景を思い浮かべてしまい笑みを作ろうとして失敗した。ギリ、と唇を噛む。――忌々しい。
そんな俺に気付いてか、砂於様は子供らしかねぬ、どこか妖しい皮肉げな笑みを口元に浮かべた。
「わしを男にしたんは、お前もよぅ知っとる女じゃが?」
「……。……! まさか、」
途端脳裏によぎる、夜な夜な快楽に身を任せ男の蜜を吸って精気を養っているような、どこか蛇のように冷たい美しさを放つ玲瓏とした女――母の顔。
「空木はほんに好き者よな。わしが手篭めにされたんは、今からもう随分と前じゃ」
眇めるような眼つきで、鼻で嗤うかのように吐き捨てる。それでいて、どこか自虐的な笑みだった。
「空知が、今まで気付きもせんとは…空木の方が一枚上手かの。流石は母、と言ったトコロか」
「……ッ、」
ギリ、とさっきよりもっと強く唇を噛み締めてしまった。唇の皮膚が裂け、痛みと共に鉄の味。
砂於様とて男児だ。女とする事に、愉しさを覚えるだろう。
けれど砂於様は、まだ十一ではないか。それも随分前だとは。
そもそも、砂於様は俺の獲物だと言うのに、母が既に味見をしていたとは。不愉快にも程がある。
俺の美しい獣は、いつか俺が蹂躙の限りを尽くして犯して穢してやる予定だったのに。こんなに早く先を越され、穢されてしまっていたとは。
「……」
「言っておくが、わしは決して、お前のモンにはならんぞ」
ふ、と醒めた眼で一瞥される。微かな笑みは皮肉に彩られ、俺を貶していた。――ささやかな仕返しのつもりだろうが、俺も顔では穏やかに笑んではみせているが、その実内心では歯噛みと共に鼻で嗤い返してやる。
砂於様が晴維を遠ざけたのは。俺が砂於様の傍に居るからだ。俺は砂於様の意識を掠め取る存在には容赦が無い。相手が格下なら尚更だ。格上で手が出すに出せない輩には歯噛みして我慢するからこそ、砂於様は晴維の為にあんな手段を採った。――それはつまり、裏を返せばそういう事で、それはそれで多少気に入らなかったりもするが、まぁ俺もそこまで心狭い男では砂於様の傍に居られないのでそこは辛うじて許容範囲だ(と言う事にしておく)。
砂於様が珍しく気に入った晴維を、隙あらば思い切り傷付けてやろうとこっそり思っていたのを、どうやら気付かれていたようだ。――それで良い。
俺のせいで、砂於様は(俺より身分の低い者限定で)誰に対しても、一定の距離を踏み越えない。俺から護る為に、砂於様は孤高を選ぶしかない。――なんて可哀想な砂於様。
俺はそんな可哀想な砂於様を、いつか踏み付け屈辱に憎悪を漲らせた眼で見詰められる為だけに、存在しているのだ。
あの夕暮れの庭で、俺の背筋に走ったモノは。
天野に生まれ落ちた宿命とも言える、純粋な欲望だった。
やっと空知。……つーか、四月と五月が晴維と遙で可愛らしいカップルだっただけに、一気に何か…こう…。
空知は砂於に夢見過ぎてる、と思いながら書きました。いくら何でもこれは無い、しかしそれが恋と言うモノ(←恋というレベルなのかどうかはともかく)。恋は盲目と言うし。雷に打たれたかのような強い衝撃!欲望の兆しはいつだって唐突!
最初から空知はこういうイメージだったので、書き出すのが遅かっただけで一旦書き出したら三時間くらいで書けたんだけど(※遙は逆に、流れは決まってたのに何故か中々書けなくて一週間くらいかかった)、最初はもっとドロドロしてたんですがあまりにも偏執じみていて気持ち悪かったのでアッサリめに仕上げてみた(これでも)。
こういう、ヤンデレなのかDVなのかよく判らないけど何か病んでるっぽいのを真面目に書いたのは初めてなので、巧く書けてるのかどうか不安。良い歳して中二病っぽいのばっか書いてる自分にも不安(爆)。
取り敢えず空知は並々ならぬ執着を砂於に抱いてしまって、砂於は齢七つで自分を殺しかねない男を傍に置いておかねばならなくなりました。
思えば砂於はこの出来事があってから、益々捻くれたんじゃなかろーか。
空知が一番気に食わない相手って、多分絶対椿だろうなぁ。砂於のお気に入りだから。自分より格上のヒトだし早蕨の人間じゃ無いから殺せない。
それにしても、相変わらず設定だけだとギャグ漫画でも通用しそうなキャラばかりだと思った。下剋上OKな主従関係が開国しても尚続いてるって、よく考えなくても不穏だ…。マジで良いの?
そんでお父様の名前初登場。「颶嵐」と書いて「ぐらし」と読む。意味は大嵐…だったような。
お題は『
Fortune Fate』様から。
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