妹に二度目の彼氏ができた。
妹、と言うには語弊がある。正しくは親戚の子。
従姉妹に当たる彼女には実際、義理の兄がちゃんと居るが、歩はそいつが大嫌いなので長年心を砕いてきた自分が彼女の兄を自負している。
事実、義兄である男は負い目もあってか、妹――明里の兄としての立場を、歩にほぼ委ねているような節がある。しかし全権譲っている訳でも無く、彼は彼なりに不器用なトコロが似ている明里を、距離を置きつつも気にしているらしいが。
それはさておき。
「……」
歩は眼の前に座る男を半眼で見詰める。言っては何だが軟派そうな外見の彼は、それを如何に生真面目に見せるかと工夫を凝らした身なりでスッキリ纏めている。そして困ったような作り笑いを浮かべて、無言の歩に呑まれていた。
(まさか、コイツが明里の……!)
認めたくは無いが――認めるのは癪だが紛れも無く事実である。そして歩は、眼の前の男を置き去りに、数年前に明里が初めて恋人を作った時のコトをまざまざと思い返した。
約五年前、明里に初めての彼氏が出来た。彼は見た目こそ少々頼り無いが、中身は結構骨のある男で、初めは多少心配な面もあったが性格は充分及第点だったので歩も結構気に入っていた。
世間知らずで箱入りで、しかも周囲の男達は腫れものに触るかのように――決して悪意でも害意でも無く、前当主の娘であり現当主の妹であり、実は当主候補でもあった複雑な立場の明里にどう接して良いのか判らず敬遠されていたせいで、明里は男をよく知らない。だから歩は独り暮らしさせるのは、凄く心配で不安だった。
一時期、明里が少し沈んでいた頃がある。その時既に歩は就職を決め、大阪に住んでいたので詳細は判らないが、偶に電話やメールでやり取りはしていたので、何となく違和感はあった。心ここにあらず、と言ったカンジの明里は珍しくて、心配して明里のアパートに行ったら。
歩が明里の変調を見破ったように、明里も心配性な歩が訪ねてくるだろうコトは予想していたのか、「義姉さんに相談して自覚したのだけど、」と前置きをして、恋に落ちてしまった旨を聞かされた時はいろんな意味で歩の心をかき乱した。
明里が恋! ――嗚呼、とうとうお前も恋を知る年頃になってしまったのかと、寂しいような感慨深いような複雑な心境で歩は明里を見詰めた。「以前アーちゃんもお会いしたコトのある…各務さんです」と頬を染めはにかみながらたどたどしく報告する明里を、親心全開で見守るコトにした歩である。
どう考えても明里にとっては初恋だ。もしかしたら自分が明里の初恋かもしれないが、でもそれはきっと、親愛の情に限り無く近い柔らかな慕情であって、こんな風に、明里を思い悩ませ頬を染めさせるような煩雑な感情では無かっただろう。だからきっと、これが本当に明里の初恋に違いない。
各務、という名には覚えがあった。最初はただ単に憎き江ノ本花の男友達で、干した藁のような髪色と泣き黒子と垂れ目が印象的なだけの少年。それが、いつしか明里が家を出てから彼の存在が明里の身近に姿を現し、彼女の世界に色を添えた。
明里を女の子扱いしながらも女扱いはしない。ただ人間として好意を向け、心から「夢の為にお互い頑張ろうな」と明里の頭を撫でた各務俊延を、下心は無さそうだと歩は確信して安心した。その時に興味無く生い立ちを聞いてみれば、父親に反発して家を出て、生活費をバイトで全て賄っているという見た目の軽薄さとは裏腹な気骨ある言動。実力主義の歩を気に入らせるに然程時間は掛からなかった。
そんな俊延を、明里は好きになってしまったのだと言う。彼は外見だけならチャラチャラ軽いイメージだが、中身は全く違って好青年だ。だから人好き激しい歩も珍しく気に入ったのだが、しかし。
初恋は難しい。どうしても実らないコトを前提として考えてしまう。俊延はあの歳にしては中々イイ男だが、そんじょそこらの変な男に引っ掛かるよりはマシだが、明里と違って彼は普通に外界で育っているので、それなりに恋を知っていそうだ。しかも、チャラい外見に似合わぬ意志の強さは、同じ男として歩も見直した程。
そんな誠実で真っ直ぐで、だからこそそう簡単に不義理な真似をしないであろう彼は、初めての恋に戸惑っている若葉マークの明里には、荷が重いのではないか。
結局は心配なのである。可愛い明里を振るような男は滅多に居ないと思うが、こんなに真っ白で綺麗な少女だと、手慰みに遊ばれそうな危険性も大きい。俊延はそんな非道なコトはしないと思うが、だからって簡単に手を出されても腹が立つし、かと言って歩の自慢の妹分をアッサリ袖にするようならそれはそれで許せない。
多分、明里は俊延に優しく振られてしまうだろう。――周囲からは短気な言動で単純と見られがちな歩でも、明里のコトになれば話は別。単純どころかかなり鋭い。だからこそ、可愛い明里がきっといつか悲しみにくれるだろうと歩は思った。
それは俊延が悪い訳では無いから、歩が俊延を恨むのはきっとお門違いだ。けれど逆恨みしてしまうかもしれないから、歩は明里が振られてしまった時、自分は明里の傍に居て慰めてやるだけにして、決して彼に私怨を向けないようにと早々に心の気構えまでした。
そんな明里が、一時期酷く元気が無かった頃がある。無理に訊き出すような真似を卒業してしまった歩は、辛抱強く明里が口を開くのをただ待った。――きっと、振られてしまったんだろう、と。歩は予測して。
蓋を開けたら歩の変な覚悟は意味が無かった。まさか歩の予想が外れ、恋愛初心者な明里が、如何にも簡単になびきそうな面とは裏腹に内面は捕まえるのに苦労しそうだと第六感が告げた各務俊延を捕まえるなんて。思ってもみなかったのだ。
歩から見て、俊延はそれなりに好青年。つまりかなり好条件。
大事な明里を任せるのだから、顔もまぁ明里の隣に立って釣り合う程度でなきゃ話にならないし、かと言って顔だけ一級品では論外。中身はちゃんと男らしく、さりとて女を下に見ず、自立心があり、誠実で頭も良く、生きる力もあり、けれど穏やかで優しく、出来れば真面目で、さりとて真面目過ぎるコトも無く、世間知らずで四角四面な明里を人間的に成長させるくらいにはユーモラスな感性や豊かな知識や多種多様の才覚を持ち、何より明里を慈しみ心から大切にしてくれるだけの能力を有する男。勿論、浮気なんてしない。――そんな男が明里の恋人になってくれれば…と、確かに願ってはいたが。
(優良物件過ぎるだろ…!)
明里は偶々好きになったヒトに振り向いてもらえたと言うだけの可愛らしい感覚だろうが、歩からすれば妹分を充分任せられると言う意味で、自分の抱いていた理想の男にほぼ近い人物が見事彼女の恋人になってしまった訳だから、こうなると明里の引きの強さがいっそ空恐ろしい。幸運と言うより強運。ギャンブルで絶対成功するタイプの人間だ。明里はギャンブルに興味無さそうなので、そんな世界に足は突っ込まないだろうけれど。
「……明里の、恋人になったんだってな」
「うん」
「…そっか」
「……オニーさん、怒ってる?」
「あ?」
怒ってはいない。困惑や寂しさはあるけれど、それでも明里はイイ男を捕まえたと思う。明里の隣に立つには、もう少し顔がキリリと硬派であった方が歩としては良かったけれど、それは歩の理想であって顔立ちは俊延のせいでは無い。充分見目好い部類に入るし、中身だって薄暗い当主よりもずっとマシだと思う。情けなさそうに見えて、これで案外勝気でヤンチャで、男らしい面があるのだと歩は知っている。
難を言えば、生活がまだ安定しきっていないトコロか。独りで起業した訳では無いが、会社を興し経営するのは、並大抵の苦労では無い。景気もあまり良くない状態が続いているし、波に乗れば良いが乗らなかったら救いが無い。
しかも、何かと不運な気がする。本人の落ち度では無いトコロが一層心配だ。明里にまでその不運の連鎖が及んだら…と思うと、いくら男として優良物件でも少々不安になる。
そんな訳で、可愛い明里をとうとう持っていかれてしまったという腹いせも兼ねて、この時の歩は辛口評価で俊延を及第点とした。
「怒ってねーよ」
「でも、顔が「面白くない」って言ってる」
「あー、まぁな、そこはホラ…察しろ」
「うん。オニーさんの大事なお姫さん、俺の恋人になっちゃったもんな」
「……実は俺は、明里がお前に振られると…そう思っていたからな」
「……」
途端、沈痛な表情でほんの少し俯き加減になった俊延に、歩は己の読みが正しかったコトを悟った。
「…やっぱな。お前結構真面目だから、明里を振るつもりだったろ」
「……」
ビクリ、と俯いた髪と共に肩が小さく跳ねた。
歩は、明里の近くに居る人間には厳しい。態度が厳しいのでは無い。判断基準が厳しいだけである。厳しい眼で相手を見て、その眼に適い歩の審査をパス出来た者だけが、明里の傍に居るのを赦すのだ。
明里のコトなのに歩の許可が要るのはおかしいが、そうやってずっと、歩は箱庭のような窮屈な一族の中、明里を護ってきた。
今は外の世界に出て、明里も世間に揉まれて成長するべきだと思うが、それでも長年の心配性がそんな簡単に治る訳も無く。
そんな歩が、異性である俊延を明里に近付くのを赦していたのは、一個人として見た俊延を認めたからだ。俊延ならば、明里を悪いようにはしない。自分の夢を精一杯追い掛けているが故に、明里の家出に理解を示し、明里の絵師としての夢を心から応援出来る。彼にとって夢とは、とても大事なモノだ。自分の人生を賭けて叶えるべくモノ。そんな重みのある夢を追い掛けている俊延は、誠実で真っ直ぐ、芯の強い男だ。体躯だけ見れば若木のように瑞々しくどこか頼りないが、心根は中々どうして気骨のある青年。
そんな男だからこそ、簡単に恋に落ちてくれるような優柔不断さを持ちえていないであろうコトは、歩でさえ判ろうモノだ。だから明里が俊延を好きになったと知った時は振られるかもしれないと、歩はずっと懸念していたのに。
「…俺、お姫さんに捕まっちゃった」
「だそうだな。俺もそう聞いた」
「俺がお姫さんのコト好きって、もしかしてバレバレだった?」
「! 俺は初耳だけどな…」
もし本当にそうだったとしたら、俊延は普段の言動のイメージよりも随分と隠し事が上手いコトになる。しかし普段のそれは明らかにポーズでは無く素だろうから、きっと明里を好きだと言う事実は本気で一生懸命隠していたのだろう。
そこまでしないと、隠せない。――それ程、明里を好いていたなんて。
「俺、お姫さんに釣り合う男かどうか自信無いけど、頑張る」
「……おぉ」
何やら子供っぽい宣言をされてしまい、歩は一呼吸遅れて返事した。他にどう言えば良いのかイマイチ判らなかったのだが。
「……オニーさんはさぁ、きっと俺のコト、女に慣れてると思ってるよなぁ」
などと口を尖らせながら言ってきた。相変わらず、どこか子供っぽい仕草が妙に似合う青年だ。そうなんじゃないのか、という疑問を口に出す前に、俊延は苦笑する。
「俺、さっき「頑張る」って言ったの、聞いてたデショ?」
「あぁ…」
「俺、本当に不安なんだ。ちゃんとお姫さんとずっと一緒に居られるかどうか、判らない。自信が無いんだ、だって俺、」
そこで一拍置くと、彼は歩にとって大変予想外な一言を続けた。
「お付き合いするの、お姫さんが初めてだから」
「―――――――は?」
誰が、何が、初めてだって?
「初めて!?」
思わず大声で訊き返してしまう。だってこの、言っては何だが見た目がチャラい男で、女に困らなさそうな男が、今まで恋人を作ったコトが無いのだと――そう言ったも同然で。
「うん。俺、お姫さんが初めての彼女。そんでもって俺、彼氏になったの初めてだから…全部上手くやっていけるか、判らないから不安」
「……!」
それは――不安だろう。確かに。
高校も卒業して、一端の社会人として起業なんかして、どう考えたって各務俊延はそこら辺の男よりレベルが高い。なまじ顔立ち効果でこうも軽そうな見た目だと、女の扱いに長けて遊び慣れていそうに見えて仕方ない。中身は誠実でも、女慣れしてそうに見えるのは事実だ。外見だけで女が群がりそうである。
そんな男が――いくらバイトに明け暮れ忙しかったとは言え、本気で恋人も作らず今まで過ごしてこれたとは! いっそ冗談だと思いたいがしかし。俊延はこんな下らない冗談を言う人間では無い。明里を心配する歩の手前、耳あたりの良い嘘を並び立てて薄い安堵を与えるような、不実な男では無い。
だからきっと、それは真実なのだろう。
「それは…不安にもなるよな」
「うん」
初めてというのは、何かにつけ難しいモノだ。何もかもが手探りなので、その分どうしても失敗が多くなる。
明里にとっても俊延は初めての彼氏だが、俊延にしてみても明里は初めての彼女なのだ。初めて同士ならより一層、不安だらけなコトばかり。
「俺、本気で頑張って頑張って頑張るつもりだけど、どうしても駄目だと思ったら、別れるコトになると思う。そうならないよう努力はするけど、断言は出来ないから。それだけは知っておいて」
「……」
すっかり融けた氷で薄くなってしまったアイスコーヒーを飲み干した。こういう時は、いっそ断言する自信が無くとも「絶対に別れません、安心して下さい」とか言うべきだ。誠実であろうとするが故に、不確かなコトを口にするのが嫌なのだろうが、TPOというモノがこの世にはある。
少なくとも恋人の保護者に対し、この言葉はあまり良くない。悪くは無いが、兄貴分としてはもう少し安心させて欲しいのだが。
まさか初めてのお付き合いだとは、歩は想像してなかったので。やっぱり及第点か、と心の中でごちる。
「……仕方ねぇな」
気難しい渋面のまま、歩は嘆息した。ポーズでは無く、本気で。
その一言がお赦しなのだと、妙に聡い部分のある俊延はすぐに気が付いたようで。
「有難うオニーさん。俺、オニーさんのコトも好きだから、本気で嬉しい」
などと、子供のように破顔した。年齢の割に無邪気な笑顔で、今度こそ歩は苦笑した。
……なんて会話をしたのを、今でも意外な程しっかり覚えている。もう、随分と前のコトであるのに。
それから二年半程、彼は――彼等は、初めて尽くしながらも頑張った。いつ見ても、お互いを尊重し想い合う初々しいカップルで、歩は自分が割り込むのも躊躇するくらいだったが、二人はいつだって歩を当然のように笑顔で迎え入れた。
そんな風に、初めての彼氏彼女の関係を一つ一つステップアップしながら楽しみつつ頑張っていた蜜月の二人だったが、しかしやっぱり、仕事と恋の両立は難しかったらしい。明里も日本絵師として弟子から半人前とは言えプロになろうかという瀬戸際で、お互い仕事が大きな節目を迎える波に乗っていた。自分のコトに手いっぱいになって、支え合うだけの余裕が、お互いに無くなりつつあった。
仕事を疎かには出来ないし、したくない。恋人の存在すら忙しさにかまけ忘れてしまう。
だったら、もう大切にする余裕が無いのなら。お互い、仕事と言う名の夢を取るのなら。恋を捨てよう。夢と恋を同じくらい器用にやりこなすには、二人共まだ若く、経験も足りず、頑固だった。どっちもある程度手抜きしないと続けられないのなら、取るべき方を取る。
二人が選んだ道は、夢だった。その為に二人は別れた。
それに対し、歩は周りが意外に思うくらい冷静だった。今までの歩であれば、先ず間違いなく怒りの矛先を各務俊延に定め、問答無用で明里の味方になると周囲は思っていたらしい。本音を言えば確かにそういう部分があるのは認めるが、事前にそういう会話がなされていたコト、明里ももう子供では無いのだと考える歩の意識と、明里だけでは無く俊延の人柄も本気で気に入っていたコトが、歩を冷静にさせた。
明里と別れるにあたり、彼のヨーロッパへの長期出張の時期と重なって、殆どが明里の味方をした。単身赴任で外国へ行く為に明里が一方的に捨てられたように見えたからだろう。
遠距離恋愛では駄目なのか、何故別れる必要があるのだと憤慨する者の中で、少数ながら歩は中立を貫いた。俊延が一方的に明里を切った訳では無い。明里とて、画の為に恋を捨てた方が良いと自分で判断したハズだ。
何せ、各務俊延という男は中々どうして意志が強いが、初めての恋人に対し、いっそ尽くし屋かと思う程優しかった。甘かった。お前以上に大切な存在は居ないと、何かにつけ態度で示していた。彼は愛情を惜しまなかった。初めてだから加減が判らなかったのか、それとも元々そういうタイプの人間なのか、明里を甘やかすのが好きなのか。とにかく、彼は明里を「お姫さん」という呼び名通り――否、もしかしたらそれ以上に大切に扱っていた。
だから、本気で明里が別れたくないと訴えたら、俊延はそれが無理でも何でも、仕事優先であろうとも、名ばかりの恋人になってしまうであろう明里と、それでも別れない道を採っただろう。それが明里にとって幸福か不幸か、第三者には判らない。
けれど明里もまた俊延同様、自分の夢と同じくらい、恋人のコトが大切だった。
恋人を残して遠い異国に何年も滞在するコトは、きっと俊延にとっては負担だろう。忙殺され恋人の存在を忘れてしまうコトすら、罪であるように思えて仕方なくなってくる。
だから、いっそ忘れてしまっても罪の意識が芽生えないように。貴重な時間をわざわざ逢えない恋人を思い出す不毛さに費やさないように。電話もメールも手紙も、面倒くさいやり取りをしなくて済むように。二人は別れた。誰が何と言おうが、最良の判断だった。
彼が出立する二日前、歩はこうして喫茶店で、互いに向き合ってコーヒーを飲みながら話をした。明里は抜きの、二人きりの男同士の会合。
別れるタイミング的に俊延は自分一人悪者になっても関係無いようだった。寧ろそっちの方が良いと笑った。曇りの無い、心からの透き通るような笑みだった。それを見て、「あぁ、コイツは本当に明里が好きなんだな」と歩は思った。
「江ノ本とかにも詰られたけど、オニーさんは俺に怒らないの?」
と問うてきた彼に、
「殴られるのを待ってるようなヤツを一々殴ってやる程俺は優しくねぇ」
と返したら、「バレたか」と悪戯が見付かった子供みたいな、それでいて寂しそうな表情をするから、本当に殴れなくなってしまって舌打ちした。――俺とコイツ以上に、明里を大切に思っている男は居ない、と悟ってしまって。
「俺、絶対オニーさんには殴られると思ってた」
「俺も殴ってやろうかとは思った」
でも実際、明里は可愛いけれど、歩は俊延のコトも何だか弟みたいに思っていて、それなりに可愛がっているのだ。俊延ばかり悪いように言われていて、彼もそれに甘んじて尚且つ良しと思っているのが気に入らない。
「お姫さんのコト、今でも凄く好きだけど…。別れたら、もうお姫さん、他に男作っても俺、文句言えないなぁ」
「ばぁか」
この優し過ぎる男は、たった独り、何年も仕事の為に異国で暮らす。明里はまだ、周りに優しい人間が居るけれど。自分も明里を慰め励ますだろうけれど。
――コイツには、誰も居なくなる。
独りで行く。向こうの人間と、新しい関係を築くのだろうが。今一番寂しくて傷付いているのは、何も明里だけじゃ無い。
それでも歩は、俊延に何もしない。既に別れるコトが決まっている二人だが、本当に別れるのは俊延が異国に発つ、二日後の朝だ。
それまでは、俊延は明里の彼氏だし明里もまた、俊延の彼女。
「……」
少年っぽさを垣間見せる青年は、最後の一口をコクリと嚥下した。
明里の初めての彼氏であるこの青年は、歩の思った通り、どこまでも明里にとって良い彼氏であるように思えた。実際、その通りだろう。だが、難を言えばもう少し強引でも良い。
明里が嫌だと思うコトは、彼女が口にする前から回避する。明里の気持ちを汲み取り、明里に甘く優しい彼氏。そのせいで、明里は最初の恋人が物凄く出来た彼氏であるコトを、それなりに自覚はしているようだが真の意味では知らないままだろう。世の中の彼氏とは、彼女にそういうモノなのだと錯覚してしまっているだろう。
好条件過ぎた。初めての彼氏にしては、彼はあまりにも理想的過ぎて。
明里がもし二度目に恋をし、恋人が出来た時。その男はきっと、この青年よりも明里を大切には出来ないだろう。何せ格が違う。それを思うと、明里の強運も表裏一体だ。最初の彼氏があまりにも出来が良過ぎた故に。
それを思うと、この男が明里と別れるのはあまりにも勿体無いようで、歩はそういう意味でも惜しいと思ってしまうのだ。
明里を想うが故に、離れていても仕事と同じくらいずっと大切に扱える自信が無いからという理由で、別れるコトに決めた彼の優しさを、まだまだ及第点だ、と歩も最後の一口を嚥下しながら思う。
「…安心しろ。明里の彼氏になるヤツを、そう簡単に認めてやらねーよ」
歩がそう言うと、やはり彼は困ったように、苦笑した。
――さて、長い回想から戻った歩は、改めて眼の前の男を見る。
明里の二度目の彼氏は、最初の彼氏に比べ、随分子供っぽさが無く、大人びている。最初の彼氏には充分子供っぽくあどけなさが抜けきらなかった故か、似合っては居てもまだどこか、雰囲気的にしっくり馴染んでいなかった背伸びしたスーツも、眼の前の男はごく自然に着こなしていた。
最初の彼氏は、柔らかに見える髪色を無造作に、かつ丁寧に梳いただけだった。少なくとも、オフの時はそうだった。眼の前の二度目の彼氏のように、ワックスできっちり整え後ろに流したりはしていなかった。
最初の彼氏は、もっと明け透けに無邪気でヤンチャだった。光の加減で、茶の瞳は翠の色が透けて見えるような、不思議な色合いを醸し出していた。あの少年と青年の狭間を鮮やかに生きていた彼を思い出すと、実際に眼の前に居るハズの一人前に大人の成長を遂げた青年の方が何やらおぼろげに見えてしまう。
明里の最初の彼氏の面影と、どうしても比較してしまう。男はそんな歩の値踏みするような視線を、気付いているくせに微苦笑するだけに留めていた。
「……お前が、明里の二度目の彼氏か」
「はい」
「……まぁ、明里が良いなら良いけどよ…」
溜め息を吐く。男はまた、困ったように微笑んだ。その笑みは最初の彼氏のと同じようで居て、しかしやはり違って見えた。――当たり前だ。
「結局、寄りを戻したんじゃねーか」
「そうなりますね」
明里の二度目の彼氏――各務俊延は、最初の彼氏で二度目の彼氏で、明里の彼氏になるのも二度目。いろんな意味で「二度目」の彼氏だ。
何となく、そうなるんじゃないかとは思っていたけれど。
明里と別れてから二年くらいしか経っていないのに、少なからずとも変わってしまったように見える俊延に、歩は新鮮さと同時に懐かしさを覚えて少しだけ寂しくなる。
もう、あの頃の無邪気で子供っぽい彼は居ないのだ、と。
飾らない、少年のような彼が弟みたいに可愛かった。歩はあの、子供っぽいのか大人っぽいのかよく判らない青年を気に入っていたのに。
「変わってないようで、変わっちまったな、お前も」
「そうですか?」
キョトン、と小首を傾げる。途端、今まで歩の視界に居たおぼろげな輪郭は、突如明確に線を帯びた。
セットした髪から、ほつれたおくれ毛がパラリと額に掛かる。泣き黒子の上にある瞳は、顔の角度が変わったからか翠が強まって茶色が滲んだ。カッチリとしたスーツの首元から、僅かに覗く喉の隆起は男らしさを増し、骨ばった手はあの頃と同じく硬い皮に覆われているだろう。労働を知り、辛酸を舐めた男の手。
いい加減成人したいい大人のくせに、相変わらず言動がどこか少年っぽいのは変わっていないようだ。変わってしまったと思ったのは、誰もが見ない間に彼が独りで成長を遂げ一丁前に大人の男の風格を宿してしまったコトに対し、歩が内心で拗ねていたからだろう。
本質は変わっていないコトに僅か安堵するも、この歳でこの動作が嫌みなく似合っちまうコトに果たして安堵して良いのか俺、と歩はひっそり思い直す。
けれど変わったようで変わってない彼に、歩もやっと破顔した。
「寄りを戻したっつーコトは、今度こそ別れるつもりは無いってコトだよな?」
――そうじゃ無かったら承知しねぇ、今度こそ殴るぞ。
物騒なコトを眼で言う恋人の兄貴分に、オニーさん怖いなぁ、と相変わらずどこか困ったような苦笑を浮かべたまま、しかし歩が弟と認めた唯一の男は、ハッキリと断言する。
「当たり前だよ、オニーさん。俺達、今度こそは全部背負ったまま生きていけるって、お互い確信した上で寄りを戻したんだ。これ以上、何を言ったらオニーさんは安心してくれるの?」
「ばぁか」
生意気言ってんじゃねぇよこの、歩は明里のコトを断言してくれたコトが嬉しくて、俊延の額をつついた。途端、何すんのオニーさん! と子供じみた文句が返ってくるが、それすら懐かしくてとうとう笑ってしまう。
それでも、素直に認めてやるのが癪なのには訳がある。
「―――――――で、」
ほんの少し声音が変わったのを耳ざとく聞き付けたか、俊延が少しだけギクリとした。
「そこまで断言しときながら、なんっでお前は、またみすみす明里に捕まっちまってんだよ!」
そうなのだ。
二度目である。元カノである明里と寄りを戻したのである。お互い相手を忘れられなかっただけなのだが、それはつまり。
「お前も明里のコト好きなまんまだったくせして、自分でなっさけねーと思わねーのかテメーは!」
まさか、二度目も明里の方が捕まえたとは。男なら今度は自分で捕まえてみろ、という話である。
歩が認めたいが素直に認めてやるに癪なのは、こういう理由だった。
「だってえええぇぇぇ!」
途端、俊延は全開で情けない顔をする。変わらないままにも程があるだろ、お前。と歩は未だ素が正直な青年の明け透け過ぎる態度に少し引いた。
「聞いてよオニーさん! 俺だって、俺だって「今度は捕まえるぞ!」って思ってたんだ! お姫さんに男居たらどうしよう、って思いながらも、それでも今度こそ好きだって全力で押して攻めて追い掛けて雁字搦めに捕まえる気満々で帰国したのに~~~!!」
「告白というのをしてみたかったんだけど、お姫さんに捕まったからもう無理だな」と、以前歩にこっそり告げたコトのある俊延は、その通りに今度は自分から先に明里に好きだと言って捕まえる気で居たらしい。何せ今まで自分から告白をしたコトが無く、付き合うのも明里が初めてだと言う彼は、正真正銘、誰かに告白したコトが無いのだろう。両想いになってから恋人に「好きだ」と言うのは、告白では無いと俊延は思っている。
好きだと告げ、相手が逃げる隙も作らせず攻め落とすつもりだったと喫茶店の片隅で大いに嘆かれて、明里の兄貴分を自負する歩としては何とコメントして良いのやら。寧ろあれだけ明里に甘く優しかったお前が、そこまで容赦無く明里を攻め落とせるのか? である。
「なのになのに、久々に逢ったらお姫さん、綺麗になり過ぎてて俺、声が出なかったんだもん! そしたらお姫さんの方から先に言ってきたんだもん! 酷い、お姫さんに見惚れる猶予くらい与えてくれても良いじゃん! ズルい!」
「明里のせいかよ!?」
どう考えても俊延の自業自得だ。
久し振りに会いまみえたかつての恋人が予想以上に美しくなっていて、思わず全神経が見惚れる為のモノと化したらしい。それは多分、明里も急な再会に言葉も出なかったと思うが、それでもお互い少しずつ会話してぎこちなかった空気も徐々に柔らかくなり、少し余裕を取り戻した俊延が「さぁ、いよいよ…」と思ったトコロで、明里の告白が待ち受けていた、という訳だった。
「……何つーかお前、間抜けだな…」
「うぅっ…」
初めての告白をすべく、必死だったのは話半分でも何となく掴めたが、余裕を取り戻そう、タイミングを図ろう、などとグズグズしていたのが俊延の敗因だ。
「今度は絶対俺から捕まえる! って決めてたのに…! 飛行機の中であれこれシミュレートしたのに…! 俺より先に言うなんて、お姫さんのイケズ~~~!!」
一度目は俺が言わせたようなモンなんだから、二度目は俺に言わせてくれよ! と自棄酒ならぬ自棄コーヒーをガッと呷る俊延に、コイツはいつになったら俺から合格点が貰えるんだ、と歩も自棄になりたい。
明里に二度も言わせるなんて、男として情けなさ過ぎる。よってやっぱり、今回も及第点。
ウチのアーちゃんは各務を結構気に入ってる。
いい加減、早く合格点出させてくれよ、とは思ってるけど。合格点を簡単に出したくない複雑な兄貴心。
そして各務と明里さんが別れたら、多分速攻で各務に制裁を下しそうなアーちゃんがあえて中立の立場を徹底する、というのを…書いてみたかったんですが。
この二人は割と仲良しな舅と婿の関係を築きそうだと思うんだ。
アーちゃんも歳取って視野も広がった分、少しは冷静になりました、みたいな。自らの夢の為に天涯孤独(?)となった各務のコトを、弟みたいに可愛がってれば良いよ。
歩の中では過去の各務があまりにも明里の彼氏として申し分無さ過ぎたせいで、鮮やかな記憶となって歩の中で眠っていただけに、誰も知らないトコロで独りで成長してしまって大人になった各務に悔しいやら面白くないやら。
しかしそれを抜きにしても、アーちゃんはちと各務を買い被り過ぎじゃなかろうか。