怖い夢を見た夜はいつも、鈴鳴はひっそりと布団の中で自分の小さな身体を丸めてふたたび睡魔が訪れるのを震えながら待つ。怖い夢は幼い鈴鳴のいたいけな心の臓を脅かすには充分だった。本当は、真っ先に布団から抜け出して父上と母上の寝室へ行って、二人の寝具に潜り込みたいのだけど、父上は毎日「政務」で忙しく、夜は疲れているだろう。母上は父上のお疲れを癒す存在で、だからこそ大好きな二人の憩いの時間を邪魔したくないという健気な想いが、辛うじて鈴鳴を自室の布団に留まらせていた。けれどやっぱり寝付けなくて、夢の内容も思い返すだけで怖くて、鈴鳴は潤む瞳に涙を堪える。その時、天井裏の気配がすぐ眼の前に降り立った。すっぽり被った衣からそろりと頭を出してみれば、そこには青白い夜に照らされた白髪赤眼の子忍が膝を折っている。白夜?と問えば、お呼びでしょうか、と返ってくる。鈴鳴はお付の彼を呼んだ覚えなどちっとも無く、きょとんと小首を傾げた。呼んだかな…?はい、呼びました。そうだっけ…?はい、確かに。どういう用事で…?姫が寝付くまで、見張っていてねって、可愛い顔で可愛い口調で可愛い仕草で命じたでしょう?そうだったかな…?そうだったんです。さぁ姫、姫の御身と御心を煩わせるモノは、全て俺が排除してさしあげますから、安心してお休み下さい。……うん。ねぇ、白夜。はい、何でしょうか姫。あのね、嫌じゃなかったらね、おてて繋いでいてほしいの。ひ、姫の可愛い手を俺が…!?有難き幸せ!で、では早速失礼します!…白夜、あの、もうちょっと静かに…。あ、そうですね俺ってば。陸助とか起きてきたらこの至福の時を逃すばかりかすっげー面倒だし!月光が障子を通して青白く染めた部屋には、声の出ない幼姫と小声で興奮する子忍の会話だけが続く。彼が唯一と心に決めた姫の寝顔が安らかなモノになるまで、少年は小さな主の小さな手を決して離さない。寧ろ寝付いたと判った後も離さない。離したく、ない。
怖い夢を見た夜はいつも、ノヒロはグラスに水を注いで一気に呷る。ノヒロにとっての「怖い夢」とは、昔からたった一つだった。まこと、といつも親しみ込めて自分を呼ぶ幼馴染。あどけない子供は、かつての自分の一番の親友だった。同じようにあどけない子供であった自分は、強くてカッコ良くて活発で冒険心に満ちた幼馴染が大好きだった。彼が笑顔で手を差し伸べる度、自分は嬉しかった。いつだって彼の冒険に、一番長く近くで付き合ってきた自負。そんな幼馴染は、女の子という生き物があまり好きでは無かった。理解出来ない、と言った方が正しいか。彼の言い分によれば、すぐ泣くしうるさいし、一緒に遊んでてもつまらないのだそうだ。だから、かつての自分はひどく怖れた。自分の名前。まこと、という響きを持つ自分を、髪の短い自分を、彼の親友である自分を、幼馴染は同じ性別だと思い込んでいる。それがいずれ明らかになってしまう。その事を、ひどく怖れた。そして運命の日。桜咲く四月。ランドセルとスカート。とうとう女の子であるとバレてしまったあの日。驚愕に眼を見開くあの子の口から出てくる言葉を聞きたくなくて、自分は咄嗟に逃げ出した。あの瞬間が、一番の悪夢。水を飲んで少しだけ落ち着いたノヒロは、またベッドに戻る。ほのかにぬくみの残るシーツに身を委ねて、充電中の黒いケータイを開く。履歴の中にマコトの三文字を見付けて暫く見つめた。顔や声や喋り方を脳内で展開していく内に、心の中は凪いだ海のように静けさを取り戻す。明朗闊達でちょっぴり乱暴者だった幼馴染と違い、温和で優しい柔らかなマコト。似てないのに何故か被る。何故だろう。けれどマコトを思い出すと、不思議とささくれ立った心は和らいで。オヤスミ、と履歴表示の三文字に呟く。今夜はもう怖い夢はきっと見ない。
怖い夢を見た夜はいつも、真艫は布団周りに積んである草紙の類を少し読む事にする。発作よりはマシだ。幸いにして、真艫は格式高い良家の子息であるから、身体が弱いだけで栄養状態は悪くない。よって僅かな月の光だけでも夜目が利く。ふと、見覚えのない草紙を見付けて引っ張り出してみると、表紙の色は朱。赤本は大きく分けて二種類。童向けのお伽噺か、いかがわしい内容の娯楽本か。間違いなく弟のだろうから、十中八九後者であろう。砂於は好色なのだ。まぁ英雄色好むとも言うし、と弟贔屓の真艫は兄ばかな事を思いつつ、我が愛しの弟君が日頃どういう内容の俗小説を読んでいるのが少し興味を惹かれた。試しにパラリ。のっけから二人の男に愛され翻弄されながら翻弄しつつ、ふらふらとどっちつかずな女の苦悩から始まった。え、ちょっと砂於にこれは早過ぎるんじゃ?と思いながらも何となく続きを読み進めていけば、たかが大衆向けの俗小説と侮るなかれ、その細やかな心理描写や濡れ場の耽美なる詩的表現は読書家の真艫もうぅむ、と唸るくらいには見事だった。次第にのめりこんでいつしか冷たい夜も白々と明ける頃、ようやく二人の男に望まれた優柔不断な女の苦悩は自害という切ない最期で締め括られる。真艫は今まであまりこういった俗本を読んだ事が無いので、こういう世界もあるのだなぁ、とぼんやり思った。もうすっかり怖い夢の事など忘れてしまっている真艫。さて、寒々しい早春の夜、布団からはみ出した肩や腕に何も掛けず一晩活字を追った真艫の代償は、その日の昼前に発作と言うかたちで現れた。無理も無い。まさしく自業自得である。かくして熱に支配され咳をする真艫の部屋に勝手出でたるかの弟は、減らず口を思う存分叩いて障子を開け放つ。途端、庭先からひんやりした風に乗りふわりと蝋梅の甘やかな香気が漂ってきて、梅が好きな真艫は思わず頬を緩めた。そんな彼の変化を見るともなしに、暫くそのままにしておいてから部屋に仄かな香りが立ちこむと砂於は障子を閉める。真艫から少し離れた隅にどっかと胡坐をかき、胸元から一冊の草紙を取り出して開いた。それがまさか自分が昨夜一晩かけて読んだ赤本の続きだとは、それこそ夢にも思わない真艫だった。
上から、『
忍と姫』の鈴鳴、『
水曜日』のノヒロ、『
十二ノ月』お題の真艫。色気が無くて済みません。