白い肌の下に流れるその血は、赤か黒か。
その書類が手違いで自分のトコロに回ってきたのは偶然だった。多分、彼と同じ村出身だからだろう。
「……えんだん?」
紙にはよく判らないが、どうやらアルバ少佐の妹にそろそろ婿を宛がう魂胆であるらしい。その婿がね候補に幼馴染も上がっているといるとは驚きだ。
名前はルキ。彼女の年齢は、書類によれば十一歳。あまり物事を深く考えないクレアですら「えっ?」と我が目を疑い、二度見した。しかしそこにはやはり十一歳と書かれてある。見間違いではないらしい。
「十一歳の子にもうお婿さん用意すんの…? マジかよスゲーな」
軍閥とやらは田舎者のクレア如きにあまり理解出来ないが、このルキというお嬢さんは十一で婿を取らされるのか、と思うと少しだけ可哀想に思う。
「シーたんが、結婚なぁ…」
十一の小娘と仲良く夫婦をやっている幼馴染の図を想像してみるが、発想力豊かなクレアにも少々難しい。
ロスは自分と違って頭も良いし機転も利くから、出世株なのは間違いない。知勇兼備の男を婿がねに、と望むのも判るし、ロスみたいに有能なくせに強力な後ろ盾のない者はかえって引き込み易い。領主の好意でお世話になったが、戸籍は自分もロスも生まれた時のままで、養子になった訳ではないから。
軍人など所詮、最後にものを言うのは結局能力だ。才能重視の軍閥だからこそ、クレアみたいに戦闘一辺倒な男でも、武功のお陰で中尉に昇進出来てしまうのだから。ロスは鼻歌交じりに大尉になっちゃえるようなヤツだけど。
「……ふーん」
この書類が何らかのミスでこっちに回ってきたのも何かの縁。
クレアは紙面を流し見て、それを二つに折ると胸ポケットにしまい込んだ。
自分に初潮が訪れるのを、兄のアルバはきっと複雑な思いで居ただろうが、ルキは寧ろ、兄の悲壮かつ複雑な思いをよそに、早く来てほしかった。
自分が早く子を産めば、あの可哀想で頼りない優しい兄は楽になれる。
それは、裏を返せば我が子を犠牲にする考えだったが、幼いルキにとって、アルバは少々情けないけれど慕わしい兄だった。母が死んだ後、ルキには慕わしい身内など、滅多に顔を合わせられないアルバのみとなっていたから。
父には懐けない。従順に大人しく言う事は聞いているが、あの人にとっては所詮、自分も兄も道具でしかないのだろう。後妻を娶ってくれれば良いのに、それをしないで明らかに軍人向きではないアルバを厳しく痛めつけながら調練して。
アルバは男で、ルキは女。子供は二人。
軍人としての跡取りは兄が、子を産んで血筋を遺すのは自分が。アルバが父に見限られる前から、既に役目が決められていた。
妹で女の自分に初潮が来たら婿を取る、という話は前々から決められていた。それはつまり、兄で嫡男でもあるアルバが家を継ぐに相応しくないと烙印を押された事と同じ。家はルキが継ぐ。
全ての楽しみや自由と引き換えに地獄のような鍛錬を何年と続けさせられ、なりたくもない軍人にさせられて、それなのに存在そのものを役立たずと切り捨てられて。
父にとってアルバは確かに不出来な息子だろう。たった一人の男児で、スペアも居ないから仕方なくアルバを鍛えるしかなくて。だけど、彼は息子を何だと思っているのか。アルバがどれだけ自分の時間を犠牲にさせられたのか、ルキにだって計り知れない。
自分が男に生まれていれば。
ルキは女である身がいつだって歯痒かった。
女児のスペアが居ないという意味では自分も同じだが、男児のスペアが居ない兄も同様だ。
父が死んだ母を想って今も独り身を貫いている部分を、ルキは女としてなら少々認めてあげても良い。ただし、妹として見るなら下策だ。アルバが気に入らないならよそに女を囲っても男児を他に作るべきだった。
世間でも後添いを貰わぬ父のそれは純愛だとささやかれている。麗しい恋物語で結構な話だ。そうやって人気取りしている部分があるのは否めない。子供だからって女を甘く見ないでほしい。
優しいアルバ。もっといろんな道があったかもしれないのに、似合わぬ軍服なんか着せられて。
兄のスペアにもなれやしない女のルキに出来る事は、自分が男児を産んで早々に彼を家の鎖から解き放ってあげるくらいしかないのだから。
十一になって、ルキにとうとうその証が来た時、女中はすぐさま父に報告し、彼はその翌日から精力的に婿を見繕い始めた。
父はロスという男を高く買っていたらしいが、何の手違いか、彼と唯一の同郷であるクレアという武闘派が見合いの席に現れた。
クレアは戦闘で能力を発揮する、ある意味軍人らしい軍人だが、その反面、頭を使う事に関してはからきしらしい。一言でいえば馬鹿なのだろう。
しかし突き抜けたポジティブとその馬鹿さ加減が良い意味で慕われて、クレアは中々人に好かれ易いようだった。色んな意味でうるさ……心が華やかで楽しい人であるのは、間違いなさそうだ。
見合いの席に手違いで訪れたクレアだが、ルキはそのまま見合いを続行した。手違いの理由は同じ村出身で、とある領主の推薦で士官学校に入り、そのまま軍に入隊といした経緯が彼と同じで、自分のトコロに回ってきた縁談の書類にはそう書いてあったから、てっきり自分だと思ったらしい。
最初に手違いでロスに配されるはずの書類がクレアの机に回ってきた時点で、クレアだけを責められない。その落ち度は元を正せば軍の事務方にある。
クレアが言うには、確かにロスという幼馴染が居るそうだ。とある辺境の小さな村で襲撃を受け、長閑な村はあっという間に戦火の灰となった。そんな中、命からがら生き残ったのがクレアとロスの二人。
たった二人の少年が、血まみれで息を切らし、救援に駆け付けた隣の町の兵士達に縋って喉を震わせた。
『オレ達、戦えるようになりたい…!』
自分達だけ生き残ってしまったと、痛切な叫びは人の好い領主の耳に届けられ、戦災孤児となった二人は暫く領主の元で静養を取った後、その好意のまま士官学校にも入学させてもらった。
そんなクレアだが、ロスと違い、卒業試験は危うかった。実技は全く問題なかったが、筆記の方で二度留年し、三年目は教師達の温情によってようやく合格させてもらったとの事。
三年遅れで少尉となった幼馴染に、ロスは「遅い」と皮肉げに笑って眉間を手加減なく親指でズドンと押してきた。目潰ししてこなかっただけマシだが、相変わらずなロスにクレアも笑った。それが二年前の事。
クレアの生い立ちを相槌打って聞きながら、根明に見える彼にも暗く重い過去があるのだと、ルキはクレアの第一印象を見直したのがこの時。
手違いの見合い相手だったが、初見でルキは彼に好感を持った。
朗らかで明るく、頑迷で融通の利かない父と比べて何と笑顔の多い人か。アルバのような頼りなさや悲壮さも感じさせない。戦歴は中々のものだが、その割に威圧感もない。自分で言う通り、少し喋っただけでも頭が足りない部分はありそうだが、気の好い青年にしか見えなかった。
本命はロスか鮫島だった父も、クレアの武力と人柄に考えを改めたらしく――おおかた、知恵の回る悪どいロスや理屈を超越して己の男気を貫く扱い辛い鮫島と比べれば、ずっと馬鹿で単純な思考回路なクレアは御し易いと思ったのだろう――そのままトントン拍子で話は纏まり、急いで結納を済ませ、挙式の準備に取り掛り、ルキは何と、半年後の十二歳で彼と結婚した。
アルバは父から「お前は我が一族の恥だから来なくても良い」と言明されたようで、通りすがりのような風体でこっそり遠目にルキの花嫁姿を見に来てくれたらしい。
当日、身内席に兄が居なくて落ち込んだが、後日アルバからの手紙に、「いつも可愛いくせに、あの日のルキは綺麗で、それが哀しかった。だけどおめでとう、ボクの愛しい妹。」と書かれた一文を見て、幼な妻になったばかりの自分は紙面に涙を落とした。
新婚初夜はこの日に用意された夫婦用の寝室、彫刻も細やかな胡桃材の寝台の上で、花嫁は正座、花婿は胡坐をかいた姿勢で顔を合わせた。
真新しい寝台の大きさとか肌に固い糊の利いた寝衣とか、如何にも雰囲気バリバリだ。あまりの判り易さに辟易したが、薄暗がりの中、シーツの上で対峙する歳離れた夫は、柔らかく微笑んだ。
「ルキちゃん。実はね、オレ――……」
そんな出だしから始まった、普段の賑やかさが嘘のように小さな声の密やかな告白は、実は縁談の指令が手違いで自分に届いたのは事実だが、内容を読んですぐにロスだと気付きながら、あえてロスに黙って自分が見合いに行ったのだ、という内容で。
「ゴメンなー。ルキちゃんはもしかしたら、シーたんのが良かったかもしんないけど」
彼はロスを「シーたん」と呼ぶ。
小さな村を襲った例の惨殺事件で、クレアの大切な人が死んでしまったそうだ。生き残ったのはロスとクレア二人だけなのでそこは納得だが、しかしロスをその亡くなった人のあだ名で呼んでしまうなんて、普段の大雑把さが信じられない程、心に受けた衝撃が大きいのだろう。
ロスを「シーたん」と呼ぶのは、そうしないと「シーたん」が死んでしまった事を受け入れたくない心が壊れてしまうかもしれないから、彼の心の安定に必要不可欠な事なんだと、周囲にはロス自身がそう説明しているらしいからよっぽどだ。
「…クレアさんは、ロスさんの為に私との縁談を?」
「シーたんがお偉方のドロドロしたけんぼうじゅっすー? ってのに巻き込まれるようなのは、オレが嫌なんだよね。オレなら馬鹿だから扱い易いだろ?」
(クレアさんって、私とおんなじなんだ)
アルバを一刻も早く自由にしてあげたくて子作りを急くルキと、ロスを守る為にワザと間違えて見合いの席に来たクレアと。
お互いが大事に想う人はそれぞれ違うけれど、利害が偶々一致している。――結婚というカタチで。
「私、クレアさんで良かった」
「本当?」
「うん」
「オレも、ルキちゃんが嫁さんで良かった」
この人となら上手くやっていける。――そう確信して、互いに布団の上で座っていた姿勢を崩し、示し合わせた訳でもないが、何となく同じタイミングで足を崩す辺り、気が合うのではなかろうか。
「…クレアさん」
「うん?」
「ちゃんと、最後までシてね」
「……マジでシなきゃ駄目なの?」
「痛がっても泣いても抵抗しても、遂行してね。…任務をこなすだけなら頭使わなくても出来るから、得意なんでしょ?」
「否、流石にそれとこれとは訳が違うっつーか……入らないかもしんねーじゃん?」
「死ななかったら何だって良いよ。裂けても入れて。そして出して。覚悟出来てる」
「マジかよすげーな!」
十一歳の小娘に手を出すなんて、クレアからすれば鬼畜の所業だろう。想像しただけでも痛々しくて、「そーゆーのはもうちょっと大きくなってからでも良くね?」と結納前から彼に再三言われているし、正直、ルキだって青ざめる程怖い訳だが、ルキの仕事は早く子供――それも出来れば男児――を儲ける事だ。
今だって、壁一枚隔てた向こうで初夜がちゃんと完遂されるかどうかを見張っている女中が居る。秘すべき事柄まで筒抜けになるのは恥ずかしいし屈辱だが、ここはこういう家なのだ。初夜明けの朝、布団に血が染み付いていなければいけない家なのだ。
「クレアさん」
「…実は昨日、軍鶏(しゃも)鍋作った時に絞めた鶏の血を羊の腸に詰めて、こう…持ってきたんだけど……」
戸の向こうに届かないよう、ずっと小声のままで会話する二人。
新品の寝衣の懐からそれらしき肉色の薄い小袋を思わせぶりに取り出してみせるクレアの意外な周到さに驚いたものの、ルキは揺るぎなく首を横に振った。
「ルキちゃん…」
「私と結婚したんだから、クレアさんも覚悟決めて」
「……」
クレアは痛ましいものを見る眼差しで妻になったばかりの少女を見据え……やがて、どこを触っても子供でしかない薄い肉付きの小さな肩を掴んで押し倒すと、白い襟元を寛げ、男らしい手を差し入れた。
翌年、骨格もまだ柔らかく小さなルキに出産はかなりの重労働だったが、玉のような男の子を産んだ。
難産だったものの母子ともに健康で、彼女の兄もだろうが夫のクレアも、破水から出産までの二日間、珍しく生きた心地がしなかった。喉に空気の塊を押し込まれたような、言葉に出来ない圧迫感が常にクレアを追い立てて。
流石にいつもは平気でクレアを弄ってくるロスも、この時ばかりはクレアの精神状態を考慮してか、額に強烈なデコピン一つかまして「しっかりしろよ、父親になるんだろ」と説教するだけに終わった。
「クレアさん…」
汗だくで疲れ切った笑みを浮かべる華奢な妻はまだたったの十三で、クレアが手を出すのも罪悪感に苛まれる程どこもかしこもあどけない少女で、それでも母になったのだと笑う。
父親の希望通り、早々に男児を産んだルキは、十三にして己の役目を成し遂げた。結果を出せない兄の代わりに。
「ルキちゃん…」
「やった…私、やったよクレアさん……! 男の子だった、これで、もぅ…………」
最後まで言わず、ルキはそのまま寝落ちしてしまった。二日間も頑張ったのだ、疲れきって眠ってしまうのも当然と思われた。
言いかけた言葉の先は、兄の事だろう。
「……ルキちゃん」
瞼を閉じたルキの汗ばんだ額。頬や首筋に貼り付く細い髪をそっと払いのけてやる。
普段戦場を駆け武器を振り回し敵を屠る自分の手が、この小さく幼い妻を傷付けないよう、いつだってクレアは慎重に触れている。同じ手で触れて小さな身体を貫いておきながら、優しく触れている、だなんて。我ながら嘘くさくて、偽善のようだけど。
その後もルキが産褥を過ぎて間もなく、早く手を出すよう再三女中などから小言を言われたが、運良く生きているだけでルキは難産だった。それも当然だと思うのだ、あの小柄で未熟な身体がよく出産に耐えきれたと感心したくらいなのだから。
だからこそ、夫としては一先ず待望の男児は産まれたしすくすく育っている訳だから、すぐさま二人目、なんて焦らずとも良いだろうと言い捨てた。またあんな苦痛を小さな妻に強いろと言うのか、と呆れすらした。
スペアが欲しいのは判る。アルバの二の舞になるかもしれないから、この際子供は多く欲しいのだろう、舅や周囲としては。クレアからすれば十二の小娘を孕ませただけでも精神的にキツいものがあったというのに、こっちの気も知らないで。
クレアは涎を垂らして熟睡する息子を腕に抱き、小さな顔を眺めて微笑む。誰が見ても慈愛に満ちた、優しい父親の顔で。
「 」
我が子の名を愛しく呼び、その額に口付ける。
クレアは必要以上に喋らず笑っていれば、中々華のある青年だ(見た目だけなら)。まだまだ少女の域を出ない幼な妻を丁寧に扱い、偶の休みでも息子を慈しむ事を忘れないクレアは、ルキに対して遠慮がある故にちっとも手を出さないのと隠し切れない馬鹿さ加減は難点だが、周囲からは我らがお嬢様…もとい、若奥様を任せる殿方としてそこそこ有益な婿殿だ、と概ね好意的に捉えられている。
「クレアさん」
「ん? なに、ルキちゃん」
優しげな婿は普段の賑やかしさはなりを潜めて静かに笑み、眠る乳児をあやしながらそっとルキに問い掛ける。柔らかな声はどこまでも甘い。
傍から見ても仲睦まじく、微笑ましい夫婦なのは間違いない。
「クレア。調子はどうだ」
「まぁまぁかな。まさかこんな早く奥さん貰うとは思ってもなかったけど」
「お前の話じゃない。子供の話」
「あー、ウチの子な。うん、誰に似たのか超元気」
「十中八九お前に似たんだろ」
中央の基地で、幼馴染と顔を合わせる。
クレアは婚姻が決まってすぐさま大尉に昇進した。嫁の実家の威光で昇進するなんて、まるで虎の威を借る狐だが、中尉のままでは自分の娘には官位が低くて釣り合わないと舅が思ったらしい。余計なお世話と思えば良いのか、有難いと感謝すべきか。
クレアが大尉になって数年。片やロスはとうとう佐官になった。ついこの間、アルバは中佐に昇進したばかりだが、ロスは既に中佐になる話が上がっているらしい。
順調に出世する友人の袖をつまみ、クレアはそっと引いた。
「何だキモチワルイ。そういう仕草は可愛い女子限定だろ」
「マジかよひでーな!」
予備動作もなくアッパーを繰り出され、マトモに食らいながらもいつもの事と慣れ切ったクレアは特に文句も言わず、そのままつまんだ方の手で自分のテリトリーに引きずり込んだ。
クレアの執務室。副官は本日休みだ。密談には都合が良い。だからこそ、ロスもわざわざ今日を狙ってクレアと接触してきたのだろうが。
「マジな話。元気だし、オレの事も慕ってくれてるし、よく寝てよく食べる良い子だぜ」
「そうか」
「二人目はまだ作んなくて良いかなー、って思ってんだけど、催促はされてるな。気は進まねーけど…」
「だったら作ってやれば」
「否でも、ルキちゃん、まだ小さいしさ……」
「何を躊躇う事がある。お前の気持ちも判らなくはないが、何の偶然か、アルバさん家の婿なんて座が転がり込んできたんだ。せいぜい利用するべきだろ」
「判ってっけどさ…」
「エルフからの定期連絡も来てる」
どちらかと言えば色の白いロスとクレアは、誰もがこの国の人間だと思うだろうが、実は違う。
つい数年前まで睨み合っていた敵国――あちらの人間だ。
褐色の肌を持つエルフは先祖返りかと言われる程色黒だが、元々どちらかと言えば色素の濃い人種で溢れるその国の子供にしては、ロスやクレアは色素が薄い。見た目だけなら明らかにこちらの人間。
それもそのはず、二人は元々そういう目的で作られた子供。戦争中、こちらの小さな村や町を蹂躙し女を攫って孕ませる。
エルフは色素の濃さを先祖返りレベルに宿してしまった失敗作だが、ロスやクレアは成功作と呼ばれた。
否、実際にはクレアも失敗作だろう。エルフも大概頭が悪いが、クレアも矯正しようがない程の馬鹿だ。ただ戦うだけの一兵士としてなら問題ないが、上に立って作戦を練ったり指揮を執る事は出来ない。
それでも、クレアが馬鹿なりにロスと同じく工作員として育てられたのは、ロスの手駒になれるくらいには身体能力が高く、ロスとの意思疎通が図れるから。
ロスとクレアは十歳で、敵国であるこの国の辺境に送り出された。
一番近くの領主が人の好い男だと聞いた小さな村に送り込まれたロスとクレアは、たった二人でその村の全ての人間や家畜を虐殺し、最後に生き残ったというシナリオを立てる為、自分達も怪しまれないよう、お互い半殺しの一歩手前まで殺し合いという名の実技特訓を行って、傷だらけになって救援の兵士達が村に来るのを待った。
そこからは計画通り、トントン拍子で軍の中枢まで潜り込めた。
長期の潜入任務で、先ずは色々工作を行う。情報収集と情報操作は欠かせず、定期的にロスが仲間のエルフに伝える。
自分がルキの婿に収まったのも偶然が半分、工作が半分。まさか敵地で結婚するとは思いもしなかったが、相手は軍でも有数の一族、総本家の一人娘。渡りに船だった。
代々お国の為に武力を捧げてきた生粋の軍閥家系のお姫様が、よもや敵国の男と契ってその子供を産んだなどと――世間に暴露すれば最後、醜聞どころじゃ済まないだろう。
クレアは息子を慈しむ。何故なら自分の子供こそ、まさに内部から侵食しているスパイだからだ。ルキはまさか、自分が長年敵対していた国の人間を婿に迎え、その男の子供を孕んだなどと、夢にも思うまい。
自分がどういう存在かもしらず、ルキや女中の手で大切に育てられ、舅からも期待を寄せられる我が子。本人すら知らずにじわじわとこの国の軍部に侵略する、大切な一手。――遠大なる侵略計画。クレアは着実に成果を上げている。
ただ、ルキを妻として大事にしているのも事実だ。
クレアは物事を深く考えるのが苦手だから、考える仕事は昔からロスに丸投げしてきた。その代わり、クレアはロスの指令には全力で応える。
ロスを「シーたん」と呼ぶのは、クレアが馬鹿だからに過ぎない。
せっかく偽名を使っても、クレアがいつボロを出してロスを本名で呼ぶか判らないなら、いっそ最初から「シーたん」と呼ぶそれっぽい理由を適当にでっち上げてしまえば良い。しかも、理由を聞けば少しでも良心のある者ならそれ以上深く突っ込んで聞こうと思わないような理由を。
それは功を奏し、今のところ、ロスを「シーたん」と呼ぶクレアのあの理由を聞いた人間が、それ以上切り込んできた事はない。
「アルバ君の事、気に入っちゃったの? 何ならあっち、裏切ろっか?」
クレアは確かに馬鹿なりに良き夫、良き父親だが、一番大切にしているのは幼馴染のロスだった。妻であるルキではなく、二つの血が流れる息子でもなく。
ロスがアルバを懐柔して手中に入れるだけなら今まで通り、その命が下ればいつだって妻も部下も裏切って故国に帰るつもりだが、ロスが本気でアルバを気に入って、ずっとアルバを慈しみたいなら――即座に寝返って、故国に牙を剥く覚悟は出来ている。
クレアは自分が馬鹿で、複雑な事を考えるのに向いていない事をよく知っている。だからルキの婿になった時、クレアはここで言う敵国――つまり故国の事を忘れようと思った。ルキの夫で居る間は、工作員である事を忘れる。
それは単純で馬鹿な頭の構造をしているクレアだから、可能だったに違いない。
ルキと共に過ごす時間の中、クレアは本当に自分が工作員である事を忘れている。ロスと顔を合わせた瞬間、「そーいやオレってスパイだっけ」と思い出すくらいだ。
ルキの事は大事にしている。けれど、大切に思うにはクレアが故国に刃を向けると定めない限り、一生無理だ。
「当初のオレの計画ではアルバさんを懐柔して、手っ取り早く依存させようと目論んではいたんだが……意外とお前の嫁の事が大事みたいだな。後一歩のトコロで踏ん張られてしまったから、堕とすには至らなかった」
「どーすんの? アルバ君、ここ最近結構自力で頑張ってるって話だけど」
「せっかくだからあの人には、この際ジタバタしてもらうか。自分の事で手いっぱいなら、オレの動向を気にする余裕もなくなるだろ。その間にオレはオレで好きにやらせてもらうし、アルバさんが自力で大将に就くのは無理にしても、いずれなるだろうし。その前にオレが将官に就くだろうから、そうなったらアルバさんをオレの副官に就ける契約だ」
「契約? シーたんの算段じゃなくて?」
「アルバさんと取引した。癪だが面白そうだろ? 賭けてみる価値はあるかと思って」
「……って事はつまり、アルバ君を気に入ったから、ずっと手元に置いておくって事?」
「どうだかな。まだそこまではあの人を買ってる訳じゃない。あの人に夢中になる前にオレが飽きるかもしれないし」
「ふーん」
「オレもお前もあっちの人間で、潜入工作員なのは事実だが、愛国心なんてないだろ? 裏切ろうが忠義を立てようが、どっちにしろ無事では済まないだろうけどな」
どっちに転んでも死亡確率が高いのに変わりない。潜入任務はいわば捨て駒。
愛国心がないと評したロスの言う通り、クレアも特に母国に対して忠誠心など抱いてない。
「オレは今のトコロ、シーたんが軸だけど、いつかルキちゃんに惚れちゃうかもしんないしね。そん時はシーたんがあっちに戻っても、オレは戻らないかも」
「クレアがオレの敵に回るのか。それも愉しそうだな」
「まだ判んないけど」
一応釘を刺しつつも、小さな妻に絆されている自覚はある。このままいつか本当にいつかルキに惚れてしまえば、クレアはロスにだって刃を向けるかもしれなかった。
「それにしても鮫島大尉はやっぱり別格だな。他のヤツより頭一つ二つは抜きん出てる。妙に勘も良いし鼻が利くようだし目障りだから始末しようと思っていたが、アイツは悪運も強いな。オレが手を下す前に自分からとっとと屑に左遷されてやるとは思わなかった。せめてヤヌア中尉を人質としてここに置いて足止めしとこうと思ってアルバさんの下に就けたのに、まさかアルバさんがヤヌア中尉を鮫島大尉の元へ転属させる措置を取るなんて……忌々しいけど、アルバさんは最後の最後でオレの予想もしない事をするから、そこだけは面白くて退屈しないから大目に見ておくか」
「あー、ヤヌア中尉をアルバ君に送ったの、やっぱそういう目論見だったのなー」
「それだけじゃないけどな。アルバさんが成長する気になったから、ヤヌアみたいに結構抜けてるヤツを傍に置いておけば嫌でも頑張らざるを得ないだろ」
「シーたんが最初から最後まで育てるんじゃなかったっけ?」
「オレに依存する弱さだけの人なら、それでも良かったが…最後の最後でオレの誘惑に踏み止まったのはアルバさんだ。そんなあの人に、今更オレが一から全て育てる義理はない。せいぜいオレの為に自力で勝手に育てば良いだろ。オレもそこまで面倒見る程暇じゃない」
「とか言って、アルバ君に王女様との縁談の可能性が持ち上がった途端、お姫様嗾けて別の男に向かせたのシーたんじゃん」
「あれは……、王女がフォイフォイ大尉…否、もう少佐か。フォイフォイ少佐を好きな事くらい、ちょっと見てれば誰にでも判る。別に…アルバさんを王配に持ってかれちゃ、オレが困るって訳じゃ、ないんだからね…っ」
「シーたんのツンデレって誰得なの?」
「煩いぞ」
「ぶべっ! いきなり殴んのヤメテ!」
「取り敢えず、お前が今気になってるのはもうこれで終わりか」
「んー…。まぁ、難しい事はシーたんに一任してっから。オレからは特にねーよ。エルフにも宜しくな」
一先ずの見解は判ったので、クレアは満足してロスを開放する。
ロスがアルバの為に故国を裏切るか、それともアルバにそこまでの価値がないと見て即座にこの軍から撤収するか、そこはアルバ次第だ。
どっちに転んでも現時点でクレアの指標がロスな限り、ルキを裏切るかもしれない自分はただ黙って国からの指示を待ちながら偽りの家族に良い婿として振舞うだけの日々だが、ロスがあそこまで執着したのは長い付き合いでも初めてだったから、どうせならアルバにはとことん頑張って頂きたいクレアだった。
前半だけなら割とほのぼの路線かもしれないのに、後半が「いつもの久」仕様…。
エルフの名前は、ただ単に肌の色だけで出しました。でもエルフって第一章だけだと唐突にアルバの前に現れた自爆系馬鹿、ってだけだけど、何かしら裏がありそうっていうか、あの馬鹿さでいつかどえらいコト仕出かしそうな雰囲気っていうか……その得体の知れなさに賭けた!
これ読んでからロスアル、鮫ヤヌ、フォイヒメを鑑みると、また随分印象も変わってくるのでは。
ロスはまだ興味本位の段階でアルバのコトはモルモットかペット感覚で愛玩してる節があるので、アルバが頑張ってロスの興味を惹き付けてやまない存在になったら結果的に国を救う…コトになるかも…?(アルバも与り知らないトコロで)
それと同じように、クレアが本気でルキに骨抜きにされたら、故国を裏切って家族の為に戦う!っていう展開にもなる訳ですが。
どっちに転ぶにしろロスとクレアは死亡フラグ高め。一番高そうなのフォイフォイだけど。逆に一番死亡フラグ低いのヒメちゃん。まぁ、一国の姫君だしね…命だけは助かる確率高いだろうな、と。
死亡確率高い順に、
フォイフォイ>クレア≧鮫島>ロス>ルキ≧ヤヌア>アルバ>ヒメ
鮫島は男気によって死亡確率が一番変動しそうなので、取り敢えず真ん中配置。ヤヌア庇いそうなので、ヤヌアよりは高いかな、と。
アルバは何だかんだ言って前線に立たされるコトは先ずないし、基地にまで軍勢が押し寄せて籠城ってなって初めて戦闘に参加するんだと思う。
ルキちゃんはクレアさんの正体知ったら、「敵国の男の子供を産んでしまった…!」と絶望して、責任取って我が子殺して自害しそう(←母子心中してもおかしくない設定背景)。なので、軍人じゃないけどアルバより死亡確率高め。逆に、クレアが母国を裏切って家族を取ったら、クレアは必死でルキちゃん守るので死ぬ確率高くなるけど、その代わりルキちゃんの死亡確率はヒメちゃんと同じくらい低くなる。